わたしは誰だろう…

わたしはいつから「わたし」に成ったのか。――今はもう、それすらわからないのに。

 

 

 

 

 

人魚姫異聞〜人の国

 

 

 

 

浜に出ると、海は穏やかでした。

 

太陽は、燦燦と照りつけ、白い砂を焦がしています。照り返しのせいで少し目が霞むようですが、数日前よりは大分足元もしっかりするようです。

王子は、共を連れ、以前からの日課だった浜の散策に来ていました。

散策とはいっても、そこはそれ真面目な王子のこと。ジョギングなどをして基礎体力の向上に努めたいのですが、今は怪我の回復を図っているため、周りから止められてしまいます。

仕方なく――本当にただ散策するしかなく、辺りをゆっくりと歩きます。

緩やかな浅瀬と、帯のように長く続く白い砂浜。青い海は煌々と輝き、気持ちを落ち着けるように漣の音が響いています。

そこから少し離れたところには大小の岩陰があり、王子は数日前の嵐の晩、そこに、息も絶え絶えの状態で仰向けに倒れているところを、偶然通りかかった海辺の住人に見つけられたのでした。

それからすぐに、そのことは街の中心に建つ城まで届けられ、彼は近くの街医者によって診察を受けました。

医者の診断に寄れば、水をかなり飲んではいるが、あって打撲程度だろう――大事をとって、暫く療養をするように、ということでした。

そのことに、周りに居た者たちは、ほっと胸を撫で下ろしました。

 

――さて、王子が海岸に流れ着いたと聞いて、驚いたのは街の人たちです。

あの海岸は潮の関係上、偶然に流れ着くことの有り得ないところなのです。例の嵐の晩は、漁師でさえ海に出られず、家に閉じこもっていた程でしたのに――王子はそこに流れ着いたというのですから。

「きっと、王子様は、あの荒海の中を泳ぎきり、そうして陸に着いた途端に、倒れて気絶をしてしまったに違いない」

皆、そのように噂をしあいました。

一方で、当の王子は、真実を自分の信頼する幾人かの者に話ました。

 

海の上で、少女の声が聞こえたこと。海に落ちた自分を、誰かが引き上げ、浜まで連れて来てくれたこと。その人の横顔をちらとは目に入れたけれど、すぐに気絶してしまったこと。

話を聞いた幾人かは首を傾げ、またある幾人かは王子の謙遜だと思い、また残りの幾人かは「真実、そのようなことがあったとしたら、とても有り難いことだ」と思いました。

何にせよ、王子は国中の者たちから愛されていましたから。国中がそっと胸を撫で下ろしたのです。

――また、彼の無事の知らせを聞き、彼の姉君は、大層安心なさいました。

姉君は、それはもう弟君を大切にされていたので、その届けを受けた際、思わず浮かした腰を、脱力したようにそっと椅子に落としました。

それから、周りの者に命じ、幾らかのお見舞いの品を街医者の元まで届けさせました。

「…本当は、私自身が出向いて看病をしたいのですが…」

 と、その内の一つのリンゴを撫で擦りながら、彼女は残念そうに呟かれたそうです。

 

 

 

 

 

 その話を聞き、王子も少し寂しそうに眉を寄せながら、共の者に伝言を頼みました。

「姉上に置かれましては、ご健勝のことと存じますが…」

 ――序文は、このような始まりでした。何だか兄弟の割りに堅苦しい言葉ですが、これでも本当に仲は良ろしい姉弟なのです。

「ご心配をお掛けし、まことに申し訳ありません。お医者様の診察によると、軽い打撲ということで、大したことは無いそうです。…ご安心ください」

 目を上げると、目の前では、共の一人が彼の言葉を受け取り、賢明に筆を取っていました。その男の筆が言葉に追いつくのを待って、再び続けます。

「…すぐに元気な顔を姉上にお見せできると思います。姉上も、国政のことのみならず、お体にもご自愛下さりますよう…草々」

 

 

 

 

 

                                                        

 

 

 

 

 王子が浜を散策していますと、ある時、一際高く波が来て、王子の足元を濡らしました。

ぼんやりとして、暫くその波の去り際を眺めます。――と、その中で何かが光ったように見えました。

ほんの一瞬でしたが、まるで金の糸のような――

 

(…アレは…?)

 

 思わず首を傾げます。明らかに海の色とは異なる様相をしていましたので、目を見張りながら眺めていると、岩場の方に向かっているようです。

 王子は、それ程使わなくなった補助杖を抱え、そっとそちらに近付きました。

「――岩場の方は、危のうございますよ!」

その様子を見て、共の者が慌てて声を掛けましたが、王子はまるでそこに引き寄せられるかのように、足早に歩き出しました。

 

――この時、何かの予感のようなモノがしていたのかも知れません。

王子が流れ着いた場所に、また何か、新たな奇跡があるのではないか。もしかしたら、あの人に会えるのではないか。

岩場の影を、王子はじっとみつめました。――あそこには誰かいる。これは、確信でした。

根拠は何も無いけれども、何か、偶然のように、その『必然』を知っていました。

近付いて、岩場の影をそっと覗きます。先ず目に入ったのは、白い布でした。それから、細い手、足、柔らかそうな茶色の髪には、ぐっしょりと海水がしみ込んでいるようです。また、閉じられた瞳は、少々青ざめているように見えました。

 

(…この人だ)

 

 

 ――瞬間的に、そう理解しました。

 それというのも、見覚えのある少女だったのです。

 彼女は、あの嵐の晩、溺れた自分を波打ち際まで引っ張り上げ、助けてくれた少女にとても良く似ていました。

王子は、青ざめた様子の彼女にそっと近付くと、しゃがみ込んでその頬に手を触れました。確かに冷えてはいるようですが、その奥にほんのりと暖かさを感じます。

王子は、海水で濡れた彼女を抱え揚げようとして――「――…っ!」

声の出ない悲鳴をあげて、思わず飛びのきます。その顔は、面白いくらいに真っ赤でした。それもそのはず――彼女は白い布に包まれた以外に、服らしい服を纏っていませんでした。

慌てて、その布を斯き合わせると、立ち上がり、供の名を呼びます。

 

「――蘇摩っ!こっちに来てくれ」

 真っ赤になっている顔を見せないように、背を向けて、海のほうを眺めます。真面目さゆえ――本当に、ちらとしか見ませんでしたが、彼女の肌の白さが目に付いてしまい、そちらを振り向くことすら出来ません。

 呼ばれた女性は、顔を背けて見せようとしない王子の様子を不審そうに眺めましたが、急を要するその声に、慌てて駆けつけました。

「どうかなさいましたか?」

 王子の背に、そう声を掛けますと、片手で顔を覆ってしまったためにくぐもって聞こえましたが、確かに――「彼女を」――と言う声が聞こえました。

 そうして、王子が指を指した岩場の影を眺め遣りますと、少女が白い大きな布に包まれて倒れているのが見えます。その様子は、頭の先から足までぐっしょりと海水に浸かり、酷く衰弱しているように見えました。

「――まあっ!…もし!大丈夫ですか?」

 急いで彼女の傍に膝を付き、その頬に手を当てます。青白い瞼は、ピクリとも動きませんが、確かに彼女はまだ息があるようでした。

「彼女を医者に」

 背後から――彼女を抱き上げた途端に、蘇摩もその理由に気が付きましたが――王子が、相変わらずこちらを見ないようにしながら声を発したのが聞こえます。

 その言葉に頷いて、再びしっかりと彼女を包む布を巻きつけると、蘇馬は気遣いつつゆっくりとその軽い肢体を持ち上げました。

 丁度その時、辺りを強い海風が吹き抜けました。そのため、もしかすると蘇摩には聞こえなかったかも知れませんが――確かに王子は、小さく呟きました。

 

「…おれの、命の恩人かも知れない」

 

 

 

 

 *                                    *                                               *

 

 

 

 目が覚めると、そこは光に包まれた空間でした。眩しさに、思わず一旦開いた目を薄く細めます。

 

(……ここは…?)

 

 その状態のまま、ゆっくりと首だけを動かし、辺りを観察します。清潔そうな白い天蓋と、それを支える綺麗なコントラストを描く天井。洗い立ての布地のいい匂いがして、体は何か、ふかふかで柔らかいものに包まれているようでした。

 暫くしてその光に目が慣れる頃、そっと片目を開き、軽く目を擦ると、手を付いて背を起こします。付いた手は、驚くほど深く沈み、体勢を保つのに苦労する程です。

 頭も少しクルクルとして、それはどうやらそのクッションのせいだけでも無いように思われました。

 

 起き上がった途端に、頭からまだ少し生暖かい、濡れたタオルが額からずり落ちます。それを手の中に収めなおし――そうして、ようやく両目で見たそこは、見たことの無い部屋でした。

 部屋と言っても、普通ではありません。今、彼女の寝ている天蓋付きのベットなどは、大の大人でさえ二人一緒に寝ることが出来そうなくらいに広く、大きな物ですし、その柔らかな具合といったら、まるで真綿のよう。

ゆったりとスペースの取られた角部屋の二つある出窓には、フリルたっぷりのレースが掛かっていて、また、とても品良く整えられた部屋の調度品も、それぞれが使い勝手の良さそうに配置されているのが見えました。

「…ここは」

 ――どこだろう。そう、口に出そうとした時、まるでそれに応えるように、奥の扉の方からノックをする音が聞こえます。

「…失礼します」

 観音開きに片方の扉が開き、現れたのは、一人の女性でした。黒い肌に、肩口で切りそろえられた流れるような黒髪。それと対照的な白の服装が、とても良く似合っています。

 女性はゆっくり、音を立てないように戸を閉めると、室内に向けて深々とお辞儀をしました。それから顔を上げて用件を述べ―― 

「タオルの換えに参りま――…アラっ?」

  思わず口元を両手で覆うのが見えした。

 ベットで寝ているとばかり思っていたのか、彼女が起き上がっている姿を見て、驚いたのでしょう。暫く二人は、そのまま見つめあいます。彼女はベットの上から。女性は口を覆ったまま、ドアの前で驚きに目を開いて。

 先に動いたのは、彼女の方でした。女性の様子に、小さく戸惑いながら声を発します。

「…あ、…あの…」

「あ、はい!何でしょう?」

 その声を耳にして、女性が弾かれたように姿勢を正したのが見えました。それから、安心させるようににっこりと微笑むのが見えます。

 その様子を、何だかすまないような心持ちで見上げます。

 

「…ここは…?」

 

 尋ねると、女性は静かに彼女の元まで近寄り、答えました。優しそうな瞳が彼女を見下ろしています。

「ここは、城の客間に当たります。…何か、不都合な点は御座いませんか?」

逆にそのように問われ、慌ててぷるぷると首を横に振ります。すると、女性はほっとしたように、そっと胸を撫で下ろしました。

「…良かった。…食欲は御座いますか?ここ三日、寝ていらしたのですから、何か胃腸に優しい食事をお運びしますが…」

 続いて言われたその言葉に、彼女は思わず身を乗り出しました。「――…三日っ!?」

 その大声に驚いたのか、女性は一旦目を丸くして――それから、心配そうに視線の高さを合わせると、口を開きます。

「ええ。…覚えておられませんか?」

 小首を傾げて、黒い瞳がじっと彼女を見つめています。再び、暫く無言で見つめ合いましたが、今度は先に女性の方が、不意にポン――と手を打ちました。

「そうだ、王子にお知らせしなければ!」

 …どうやら、一瞬の驚きのために、忘れていたようです。その声に、今度は彼女が首を傾げる番でした。

「…王子、様…?」

 その呟きに、女性はしっかりと頷きました。「――ええ」

 同時に、目が細められたのが見えます。

「…聞いた途端にきっと、飛ぶような勢いでこちらにお出でになるでしょうね」

 そう言って、その女性は上品に笑いました。人が人を話す際の様子というのは、こんなに幸せそうになるものだろうか――そう思わずに居られない程、その顔は楽しそうでした。

――その様子から、何だかその王子に対しても好感を持てるような気がします。

 笑いを収めると、そのままの瞳で見つめられます。その中に、暖かな色が宿っているのが見えました。

 

「きっとそうです。…とても心配なさっておいででしたので」

 

 

 

 

 

                                                        

 

 

 

 

 

海岸の岩場付近で拾われた少女は、初めの内は衰弱の具合が酷く、一人で立ち上がることも出来ない程でしたが、日が経つにつれ、次第に回復を見せるようになりました。

 

 愛くるしい瞳に、柔らかな微笑み。彼女が居るだけで、辺りがぱっと華やかになったように感じます。

お城の王子やその姉君に「是非に」と求められ、城で過ごすようになってから、一週間もしない内に、彼女は城内・城下を問わず慕われるようになっていました。王子も可愛らしい彼女に夢中です。

 ――しかし、そんな彼女にも、たった一つ、困りごとがありました。

どうしたことか、彼女は記憶を無くしていたのです。自身の名前や家族、その構成、生年月日から、住んでいたところまで――彼女は、自分に関することを何一つ覚えていませんでした。

 浜に流れ着く前、何らかのショックを受けたのかも知れません。

 時折、笑顔の中にほんの一瞬、彼女が見せる寂しげな表情はそのためでした。

 

 また、普段の生活にはあまり支障はありませんが、それでも名前が無いというのは不便なものです。――そのため、彼女には新たに、「サクラ」という名前が付けられました。

 それというのも、彼女が浜に倒れていた際、その手の中にたった一つ、小さな薄紅色の桜貝が握られていたのを、王子が覚えていたためです。

 

 

 

「サクラちゃんに、黒鋼をご紹介しますわね」

 姉君――知世姫と呼ばれる、サクラとほぼ同年齢の少女が、柔らかい微笑を浮かべながら、一人の男性を手招きします。

 それまで部屋の入り口付近の壁に、腕を組んだまま無言で佇んで居たその男性は、知世姫の招きに応え、(僅かに面倒臭そうにも見えましたが)腕を解くと、ゆっくりと壁から背を離しました。

 真っ黒な髪に、上から下まで真っ黒な服を着ているため、一見、黒尽くめという感じです。しかし、その中で唯一つ、煌々と燃えるように紅い瞳が印象的な男でした。

 歩くたびに、背中に背負った細身の剣が揺れ、金属同士のぶつかり合う音がします。そうして、知世姫の前まで出ると、彼は一旦立ち止まり、不審そうな目をして口を開きました。

「…何か用か」

 その問いに、知世姫がにっこりと微笑を返します。

 

「ええ」

 

 サクラからは、笑顔を向けられ、黒鋼と呼ばれた男性が、何やらさらに不機嫌そうに眉根を寄せたのが見えました。知世姫は、それから再びサクラの方に向き直ると、掌で彼の方を示しながら、優雅に微笑みました。「サクラちゃん。この者が黒鋼」

 見上げると、冷ややかに見下ろしてくる紅の瞳と目が合います。

「ウチの下男ですわ」

「――おいっ、ちょっと待てコラ、知世!」

 

 

 …どうやら、間違った紹介だったようです。

 その反応の切り替わり振りに、思わずサクラは目を点にしました。知世姫と話している際の黒鋼の様子が、サクラと対峙した時の印象とあまりにもかけ離れていたためです。

 見た目には子供と大人程の年齢差がある知世姫と黒鋼ですが、何だか、その様子は「飼い主と大型犬」のようでした。

 冷たい印象を与える鋭い目も、鍛えられた強靭な肉体も、彼女と話している間は鳴りを潜め、そこに親しみやすささえ覚える程です。

 

「剣術の先生なんです」

 王子がそっとサクラの横で耳打ちします。

「国一番の剣士で、…以前は剣の道を究めるため、世界中、旅をしていたそうです」

 目を向けると、サクラとほぼ同じくらいの年齢の少年が、柔らかく微笑んでいるのが見えました。

艶のある真っ黒な髪と瞳の少女と、猫っ毛の茶色の髪と瞳を持つ少年との姉弟――見た目の印象ではあまり似ていない兄弟ですが、態度や様子といった何気ない仕種がとても良く似ているようです。

「…旅を?」

 サクラより少し背の高い彼を見上げ、問いかけると、彼が小さく頷いたのが見えます。

「…ええ」

 それから、王子――小狼は、一旦、相変わらずの彼の姉と黒鋼に目を向けたかと思うと、ゆっくりと目を転じ、どこか眩しそうにサクラを見つめました。

 

「それから…大切な、…探している人がいるらしいんです」

 

 

 

 

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※途中書きV3※

…ギャグにならへん、ギャグにならへん。

どうしてでしょうね。あまりギャグが思いつかない。めったに自分も、ギャグ言わない人間ですけどね。

ようやく書きたかった人・知世姫登場!(…長かった。しかも、出番少ない)

彼女にはギャグの素質があると見込んで。

「黒様の探している人」とかっていう設定は、(当然)自分が勝手に取り付けましたが、「この話の外伝とか書く場合に活かせるかな〜」程度のモノです。蛇足ね。

BY dikmmy