人魚姫異聞 〜魔女の家

 

 

 

 

 

 

コンコン――と慎重そうに叩かれるドアの音が聞こえました。その音はとても小さな音で、気をつけて聞いていなければ聞き逃してしまう程です。

目を通していた分厚い書物から目を上げて、魔女――実際には魔女から留守を預かっているだけで魔女というのは正しくないのですが――もとい、彼は音のした方を振り返りました。

深い深い海の中――その中のさらに深く、暗い海の底の辺りにあるこの家には、めったに客人と呼べるような人も、波の音も、ましてや太陽からの光でさえ届かない程です。

そのため一瞬、気のせいかな――と彼も疑いました。

しかし、それを打ち消すように再びドアの方から音が聞こえます。――コンコン。その音に、一旦パチクリ目を瞬かせて、彼は組んでいた足を解きました。

腰掛けから立ち上がると、そっと近くの机の上に読みかけの本のページを開いたまま乗せます。

 

 

 

「はいはーい。開いてますよー」

 繰り返し響いてくるノックの音に、明るい声で答えます。

 その声に、ドアの向こうからオドオドしたような声が聞こえました。その声からすると――どうやら久しぶりの客人は小さな女の子のようです。

「…あ、…あの…」

「はいはーい。どちら様―?」

 言いながら、軋むドアをゆっくりと外に押し開きます。すると、すぐ傍で小さな悲鳴が聞こえました。「きゃ」――彼としてはのんびりと開いた積もりでしたが、急に空いたドアに、驚いたのでしょうか。

「…あ、ごめんー」

 思わず詫びの言葉が口をついて出ます。

 その悲鳴に目を丸くしてから、もう少し押し開くと、ドアの後ろの辺りに女の子が一人立っているのが見えました。

 茶色い柔らかそうな髪が肩口で揺れている、可愛らしい女の子です。彼女の大きな瞳がさらに大きく見開かれ、彼を見上げています。

 手をきつく握り、どうやら怯えているようです。

「えっとー…」

 そんな彼女に、どうしたものかと考えながら――そっとしゃがんで目線を同じにします。目線を合わせると、彼女の表情がもっと良く見えました。

「こんにちはー」

 取り合えず、まずは挨拶です。

 にっこり微笑みかけると、彼女がまた一瞬大きく目を見開いて、慌てて頭を下げるのが見えました。

「――こ、こんにちは!初めまして!」

 そんな彼女に、「これはご丁寧にー」と言いながら彼女を真似て、彼も頭を下げ深々と腰を折ります。

「…えっとー…どちら様―…かな?」

 頬に人差し指を当てながら、首を傾げます。それに合わせ、さらさらと金色の髪の毛が肩口を流れました。

 その声に、再び彼女が目をパチクリと開きます。どうやら、自分は彼女を驚かせてばかりだな――ふとそんな風に自嘲気味に笑って、彼女の瞳を覗き込みました。

「あ…あの…名前は…サ、…サ…」

 喉元に言葉が引っかかったように出なくなっている彼女に優しく微笑みかけて、新たに口を開きます。「…あーそっか」

 不意に聞こえた声に、綺麗な茶色の彼を見上げる瞳と目が合いました。彼の物とは違う、暖かな色に思わず口元から笑みがこぼれます。

「あのねー俺はねー…ファイっていうんだー」

 

 

 

 

 

 

 

 軋む音を立てながらドアが開いた途端、サクラ姫は思わず目を疑いました。

 金髪に青い瞳。金色はこの間初めて見た月の色と同じで、瞳の色は深い海と同じ色です。このような色は、黒や茶色、灰色の瞳と髪が多い海の中の国では――大変珍しい色でした。

 

(……綺麗…)

 

 その色に、サクラ姫は思わず見惚れます。

 優しそうな微笑と、のんびりした喋り方。背は驚くほど高いのに、とても細い体つきをしています。まるでそのことを強調するような服装も、見たことが無いようなモノでした。

 それでなくとも、この家を訪ねた時には昔ながらの鼻の曲がった、皺だらけの魔女を想像していただけに、気勢を削がれた気分でした。

 ――しかし、それでも彼が魔女(?)であることは変わり無いのです。サクラ姫は、一瞬の内にまた気を引き締めました。

「俺はねー、ファイっていうんだー。ファイ・D・フローライト…君はー?」

 彼――ファイが小さく首を傾げながら尋ねます。そんな様子の彼に、サクラ姫は――慌てすぎて舌を噛んでしまいそうでしたので――出来るだけ慎重に言葉を紡ぎました。

 

「サクラ、です」

 

 何とか無事に答えられ、わずかながら顔にも笑顔が戻ります。彼も、それを見てさらに優しく微笑みました。

「サクラちゃんかー。この辺では見かけない子だよねー」

 「…ていうか、この辺に住んでる人自体居ないけどねー」と、ファイが何だか楽しそうに笑うのが見えます。

 この辺りに住んでいる人が居ないというよりは、魔女がわざわざ都の中心から離れた場所に家を建てたことがそもそもの問題なのですが、彼は気にしないようです。朗らかに微笑んだまま、彼が再びサクラ姫に尋ねました。

「でー。…サクラちゃんは何をしにこんな場所へー?」

 ファイが、「どうぞー」と言いながらドアを押さえて、サクラ姫を室内に招き入れます。室内には右側にキッチンと、その他は驚くほどの蔵書で埋まっているのが見えました。

「…迷子…じゃないよねー?」

 念のためというように、彼が首を傾げます。サクラ姫が中に入ると、ファイが後ろ手にそっとドアを閉める音がしました。

「…はい」

 その問いに、サクラ姫は真剣な表情で頷きます。それから、背の高い彼を見上げると、思い切って声をかけました。

「…あの、魔女…さん?…ですよね」

 疑問符が含まれていたのは、確かにファイは男性にしては細身で優しい雰囲気をしていましたが――明らかに女性ではないことを見抜いていたからです。

 それに対し、彼がキッチンの方からゆっくりと首を振るのが見えました。手には紅茶の缶が握られています。

「あー、えーと俺はねえ…魔女(ウィッチ)じゃなくて魔法使い(ウィザード)だよー」

 言いながら、かぽん――という音を立てて紅茶缶を開きます。流れるような動作で、その中身をポットに空けているのがサクラ姫からも見えました。

 実際、些細な呼び方の違いなのですが、残念ながらサクラ姫は、そもそも魔女も魔法使いも見たことがありません。――その違いすら初めて聞いたくらいです。サクラ姫は、そっと首を傾げました。

「…うぃざーどって何ですか?」

 たどたどしい発音で尋ねます。

 知らないとは思っても見なかったのか、その質問に彼が小さく目を開いたのが見えました。

「……あー…そーか」

 プチカルチャーショックから、暫くして目覚めて呟きます。それから、「えっとー」と小さく口ごもりながら、何か考えるように人差し指を口元に当てました。

「…そうだなー。…魔女の男版?…みたいなー」

「…はあ」

 ファイの言葉に、何となくわかったようなわからないような――そんな調子でサクラ姫は相槌を打ちました。

「本当は魔女もいるんだけどー…ちょっとお出かけ中でー。俺、留守番なのー」そう言って、悪びれも無く彼がにっこりと笑います。

「…で、サクラちゃんは何をしに来たのー?」

 再び首を傾げて尋ねられ、サクラ姫も意を決して再び口火を切りました。お腹の正面で手を握り合わせます。その手に、思わず力が篭りました。

 

「――会いたい人が居るんです」

 

 

 

 

 

 

 

 

「会いたい人が居るんです」

 小さな少女の真剣な表情に、ポットにお湯を注ぐ手が止まります。組み合わせた手は、大いに力が篭っているためか微かに白くなってしまっているのが見えました。

 ポットの上部まで湯を注ぎ、ポットの蓋を閉めます。その上にそっと温度を保つためのハンドタオルを乗せて、ファイは一旦いつもの癖で時計を見上げました。

(あの針が5のところに回るまで…かなー?)

 そうして、紅茶を淹れるまでのタイミングを計ります。それから再びサクラの方に視線を戻すと、その表情を見つめました。

「…サクラちゃんの会いたい人って、どんな人―?」

 対面式なため、位置としてそれ程変わらないのですが――キッチンから出てサクラに近寄りながら尋ねます。

 その問いに、不意にサクラの顔が赤らめるのが見えました。思わず、ファイはにっこりします。

「…男の子、かなー?…カッコイイー?」

 カウンターに寄りかかりながら問うと、サクラが、そっと――小さいながらも頷くのが見えます。その様子に、ファイは薄く眉根を寄せました。

「……俺が魔女かって聞いたよね?」

「…はい」

 まだ幾らか顔が赤いままでいしたが、サクラがその言葉に顔を上げるのが見えます。

「魔女に頼まなければ、会えない人…ってことかな?」

 真剣な表情で尋ねます。彼女もそれを察してか、真剣な顔でファイをじっと見つめました。その茶色の瞳が、瞬きもせずにファイを見上げています。

――ファイは、嫌な予感がしました。その彼女の様子は、ファイも確かに知っている感覚でした。

「……はい」

 サクラが重々しく頷くのが見えます。先程と比べてその表情にはさっと影が差し、青ざめたようにも見えました。

「…彼は人間、なの?」

 重ねて尋ねます。ファイの顔からは、すでに笑顔が消えていました。代わりに浮かぶのは、深い深い――何ともいえないような、とても沈痛な思いでした。

「はい」

 サクラが頷きます。その顔にも、ファイと同様の陰りが浮かんでいます。

 

 

「……どうしても…会いたい?」

 

 ファイが尋ねます。

「……何を無くしても?」

 その言葉に、サクラが口を真横に引くのが見えました。その様子に、ファイはさらに額に眉を寄せます。「何を無くしても」それでも会いたいのでなければ――その程度の思いならば良いとファイは心の奥で願いました。

 それは明らかに彼女に対して失礼かもしれないけれども――それでも、切に願いました。

「……魔女に願いを叶えてもらうためには、『代価』が必要なんだ」

 一言一言区切るように、言葉の漏れが無いように慎重に彼女に説明します。

「…それを、知っている…?」

 言いながら、彼女の瞳を見つめます。

 相変わらずサクラの目は温かな茶色をした真っ直ぐな瞳のままで――その瞳を見つめながら、ファイは我知らず俯きました。

「……記憶を…無くしても…」

「記憶を…?」

 サクラがふとファイの言葉を拾い上げて呟くのが聞こえます。

「…そう。ヒトに会うにはヒトになるしかない。…だけど、そのためには記憶を貰わなきゃ…」

 俯いたまま、彼女の瞳から逃げるように目を伏せます。ファイは手を口元に当てました。そうして、指折り数えていきます。

「今までのこと、兄弟のこと。家族のこと。大切な人のこと」

 ゆっくりと、一つ一つ区切るように。

「そして…彼のこと――全て」

 ピクリ――と、その言葉に応えるように、サクラの肩が小さく上下したのが見えました。その様子を寂しそうに見つめて、彼は問いかけました。

「…それでも、会いたい?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「それでも、会いたい?」

 ファイが、何だかとても痛そうな表情で問いかけてくるのが見えます。サクラ姫は、その様子にそっと息を呑みました。

 言葉にされなくても、――彼が自分と同じように何かに悩み、苦しんでいる様子が伝わったからです。

 そうして、ゆっくりと彼の言葉をかみ締めました。

 「何を無くしても」、「それでも会いたい」か?――彼に。

 国の皆のこと、友達のこと。大好きな神官様や女官達。それから王である兄のこと。――考えなければいけないことは、沢山あるはずです。大事なものも。守りたいものも。それら一つ一つに思いを巡らせます。

(…兄様、雪兎さん…皆)

(そういえば、八百屋のおばさんと明日約束があったっけ…)

(今度の日曜には、皆で遊ぼうって話もあった…)

(…この間のアレはどうなったんだろう)

 そうして順繰りに彼らのことを考え、考え、考え。それでも――

 

 

(…あの人は今、何をしているのかな)

(…あの後、きちんと帰れたかな…)

 

 

(私のことを覚えているかな――)

 

そんな風に、あの人のことを考えている自分に気付きます。サクラ姫は、ほのかに顔が熱くなるのを感じました。冷えた心にも、握った手にも、じんわりと温かみが戻ってくるような――そんな感覚なのです。

 何を考えていても、何をしていても――あの日あの時見た、あの人の顔が浮かび上がります。

 船の上でのあの人の真剣な表情。ほっとした顔。柔らかな笑顔。そして海の中で見た、冷えて蒼白になった瞼も――全て目の前に取り出すことができるようでした。

 心臓がどくどくと早鐘を打つのがわかります。サクラ姫はその上にそっと手を添えると、顔を上げてファイの顔を見つめました。

「…決心は揺るがない?」

 ファイが、しっかりとサクラ姫の瞳を見つめながら問いかけてきます。その深い海のような瞳に、さらに辛酸な色が浮かぶのが見えます。

 その色を見上げて、サクラ姫は静かに思いました。この感覚は、確かに今の自分も知っているような気がしました。

 

 

(…ファイさんは…誰かのことを思っている…?)

 

 

 サクラ姫はふと、感覚的にそれが正しいものだと思いました。彼は誰かのことを思っている――今の自分と同じように。

「これから先のことを思うと…揺らぐかも知れない。――でも…」

 

 言いながら、じっと彼の瞳を見つめます。そんなサクラ姫に目線は逸らさないままで、自嘲気味にファイが笑顔を見せました。その様子は、続く言葉を――まるであらかじめ知っているようでした。

「今、会えなければきっと後悔すると思う」

 サクラ姫の言葉に、彼が静かに微笑むのが見えます。

「……そう」

 観念したように、彼がその言葉に頷いたのが見えます。その表情は、優しいけれども――あまりにも儚げな笑顔でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 少女の答えは、残念なことにというべきか――ファイの考えていた通りのものでした。

 

「そう」

 呟いて、静かに顔を上げます。ちらと時計を見上げると、すでに長針は5の場所をとうに過ぎているのが見えました。

(…あー……苦くなっちゃってるかなー?)

 思わず、考えが余所に飛びます。

 思考を他のものに移すのは、あまり利口な考えとは思いませんが、――何しろ、それでは何の解決にもなりませんから――ファイは思わずとんちんかんなことを考えたいような気分でした。

「…はい」

 サクラが頷いた声が聞こえます。その声に、つと視線を彼女に戻しました。

「…うん。そうだねー…」

「何かそんな気がしたよー」軽口を叩きながら、彼女の頭に優しく手を置きます。柔らかな髪が、彼の手が動くのに併せて揺れるのが見えました。

ファイが彼女の頭上に手を乗せた途端、彼女からは小さな悲鳴が上がりましたが、それが拒絶の意味を持たなかったので、かなり長い間、彼女の髪を撫ぜていました。時折、彼を心配そうに見上げる暖かな瞳と目が合いました。

それは、ファイが見たこともないくらい――優しい瞳でした。

「んー…平気だよー?そんなに心配しなくてもー」

 その瞳に、にっこりと微笑みかけます。

「ヒトになるって言っても、そんな苦い薬とかじゃないし…それに、ちゃんと会わせてあげるからねー」

 ファイは、サクラが自分を心配しているのだということに薄々気付いていましたが、あえてそこは気付かない振りをしました。

 それから踵を返すと、蔵書で埋まっている棚の中から、あるものを一つ手のひらに乗せて持ってきました。サクラが、不思議そうな目を向けているのが見えます。――それは深緑色をした小さな壷でした。

 きゅぽん――という軽い音と共に蓋を開けます。すると、中にさらに小さな黒い粒が入っているのが見えました。

「はいー、サクラちゃん」

そう言いながら、ファイは彼女の手を掴むと、そっとその手のひらに壷の中から拾い上げた粒を三つ乗せました。

「あの…これ…」

 恐る恐る、サクラがその粒を見守っているのが見えます。ファイはサクラを安心させるように笑いかけます。

 

「絶対に会わせてあげるよー」

 

 

 

 

 

 

                                                        

 

 

 

 

 

 

 ――その粒を飲み込んだ途端、サクラが目の前で倒れるのが見えます。

 ファイはそっとその体を、倒れ込む寸前肩に手を回して支えました。細い肩は、薬の副作用でほんのりと体温が高いようです。彼は彼女を辺りにあった大き目の布で包むと、大事に抱え込みました。

 布の隙間から彼女の顔が覗いていますが、その口元からは微かながら――しかし確かに酸素が漏れているのがわかります。サクラは少しずつヒトになっているのでした。

 彼女を抱えたまま、ファイはその耳元に静かに話しかけます。

「大丈夫。…絶対に会わせてあげる」

 その瞳には寂しさと、それから羨望の欠片が浮かんでいました。

 

(…きっと大丈夫)

 

 ゆっくりと小さく頷きます。理由はありませんが、それは確信に近い思いでした。彼女の、その瞳の強さを見ればわかる――だから。ファイは、しっかりと彼女を抱え込みました。

 

それから軋むドアをそっと開くと、白みかけている空を目指し――静かに海の上に向けて泳ぎ始めました。

 

 

 

 

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※途中書きV.

 

…ようやくファイさん登場しました。2話目で。でも、主人公じゃないんだよねー。残念。自分は彼がお気にです。

そういや本来の人魚姫と少し違ってきましたかね。『ツバサ』とも。……まあ、その辺は『ツバサ』改ってな感じに考えているので、しょうがないといやしょうがないですね。(反省無し)

魔女だから――と侑子さんだと思った方がいたら、残念でしたー。どっちか悩んだんだけどねー。ある人を出すために、ちょっくらこの辺でファイさんを登場させました。(多分、次回出てきます)

メールフォームも無いけど、感想お待ちしてますー。

BY  dikmmy

 

 

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