――じゃあ、どうして気になるの。

 

 

 

 

 

人魚姫異聞〜人の国2

 

 

 

 

 

 

高い高い塔のような城の上階。

太陽の日差しがさんさんと窓から降り注ぎ、明るく照らされた部屋の中、開かないようにと、しっかり錠の掛かった窓のふちで、そっとそこに手を突いて、サクラ姫は顔をわずかに近づけます。

大きな城。大きな町。

眼下に広がるのは、そびえ立つこの城を囲うように、あるいは寄りそようにひしめき合った民家や商家の家々の色とりどりの屋根の波。赤、青、黄、黒、茶色や赤茶のレンガ造りのその色彩は、姫にとって、初めて見る光景でした。

陽の光の温かさ、頬に感じる風。そんな、ヒトからすればひどく当たり前なそのことが、姫にとっては不可思議で、真新しく、胸躍る愉快なことだったのです。

 

おそらく、今の姫がこんなことを周りに漏らしでもしたら、不思議そうな顔で見られることでしょう。

あるいは、余程の感激屋さんであると、勘違いをされるかも知れません。

 

姫自身覚えてはいませんが――今まで海底で暮らしていた姫とは違い、ヒトにとってはそれはもうありふれた、当たり前のことなのですから。

ふと、目の前を切り裂くようにツバメが横切り、それを追うように目を向けます。するとその端のずっと遠くの方。町が切れて、さらにその先の方。きらきらと輝く何かが広がっているのが見えました。

目はそちらに向けたまま、近くに控えているはずの蘇馬に声を掛けます。

 

「・・・あれは何ですか?」

「どちらですか?

 

その声と共に、忍びらしく薄い気配が背後に寄ったのを感じました。

わずかに衣擦れの音がして、カーテンを彼女の浅黒い手が押し開きます。

声がした方に顔を向けると、黒髪に切れ長の目をした美しい女性が、サクラ姫との間に幾分かの隙間を空けて立っていました。

「あれです。あの」

指で刺しながら、彼女が見やすいように、ほんの少し位置を譲ってやります。

「きらきらした」

 

言いながらもう一度その方向を見やると、何やら目が吸い寄せられるような気がしました。

懐かしい感じ。暖かな感じ。ここから離れた遠くの場所で光っているそこに、途方も無い親しみを感じます。

思わず窓に顔を擦り付けるように近づいたサクラ姫に、目を細めた蘇馬から答えが返りました。

 

 

 

「…あれは、海ですね」

そうしてから、蘇馬は――彼女はこの後この行動を酷く失策として自分を詰るのですが――まるで普通の姫君に対するように、

「海を見るのは初めてですか」

そう尋ねました。

尋ねてしまってから気付いて、慌てて口を手で覆うのですが、発してしまった言葉はもう元には戻りません。

かといって、謝るのも不自然、というか失礼に当たるだろうか。そう考えて無言を通した蘇馬に、背を向けて窓の外をじっと見ていたサクラ姫は、そんなことには気付かずに、「いいえ」と返しました。

その声が強張っていたり、不自然に揺れていたりしたならば、彼女はまた酷く自分を責めたことでしょう。しかしその声は、まるでいつも通りの、サクラ姫の優しい声でしたので、蘇馬は一人、ほっと胸を撫で下ろしました。

 

 

(そうだった。…彼女も、海を流れてきたのだ)

胸の中で、酷く後悔します。

 

今はもう穏やかに笑えていても、それはまだ日も浅い、ほんの数日前のことと彼女自身記憶していました。

風雨の吹き荒れた嵐の晩、乗船していた船上から荒波に飲み込まれ、一時行方不明になってしまった王子を、その身を案じ、ろくに床に就くことさえお出来にならなかった女王を、そして、自身のふがいなさに甲板に爪を立てることしか出来なかった己を忘れたわけではありませんでした。

その後、無事王子が発見されたとの第一報。

さらに遅れること数日、サクラ姫が王子と同じくして浜辺に投げ出されていたところを、発見したのです。

 

蘇馬はそっと、背後からサクラ姫の折れそうな背中を見つめました。

――そこは、漁師たちの話によれば、潮の関係で、偶然に流れ着くことのありえない場所でした。

普段は波も穏やかな遠浅の海なのですが、その日は波も高く、漁村の漁師たちも漁を手控え、早々に帰村しているような有様だったのです。

(…そんな中、たどり着いた)

強靭な、我らが王子ならまだしも、何の力も働かずにこんな偶然がありえるとは思えませんでした。ましてや、一度も海を見ずに済むなどと!

 

(相当恐ろしい目にあったに違いない)

 

蘇馬は思わず、可愛そうにとサクラ姫を抱きしめたい衝動に駆られました。

記憶を無くした、小さな姫君。

愛くるしい表情と、慈愛に満ちた優しい笑み。

折れそうに細い肩に、それでも毅然として、まっすぐ伸びた背中――

それは、蘇馬の敬愛する別の姫君、黒髪の、敬愛する主と重なるような気がしました。

 

「…ウミ」

「………は」

不意に、近くで囁かれた呟きに、意識を寄り戻します。

声の主は、やはりサクラ姫でした。そのことに、小さく目を瞠ります。

聞き取りにくい程小さくか細いその声は何故か、まるで初めて発した、というようなたどたどしい発音でした。

「海がどうされました?」

まるで海水でも飲んでしまった後のように、一気に水分の足りなくなった口で、ただし、何事も無いような素振りで、蘇馬がゆっくりと問いかけます。

個人的な意見を言わせてもらえるなら、蘇馬は、サクラ姫が海に関心を持ってしまうことには反対でした。

 

トラウマを起こしてしまっては元も子も無い。

そんな蘇馬の考えを知ってか知らずか(おそらく100パーセント知らないでしょうが)、サクラ姫が振り向きます。その口元には微笑。頬が期待に、薄く染まっています。そして――

「海、行ってみていいですか?」

 

 

 

 

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