「…あの人は誰だろう」
と彼女が言いました。
「あの声は誰のだろう…」
と彼は思いました。
人魚姫異聞
昔々ある海の深いところに、王様が住んでいました。王様は、海の中を治めていて、鯛や平目は元より、様々な海の中に住む生き物たちから好かれていました。
また、王様にはそれはそれは可愛らしい妹姫がおり、その名前をサクラ姫といいました。
サクラ姫の笑顔は、深い深い海の底に届く太陽の光のよう。その優しい心は、波のように穏やかで、暖かな瞳は、深い海と同じにとても澄んでいます。
海の中の生き物たちはもちろん、王様も、お姫様をとても大切に思っていました。
――そんなある日、お姫様が始めて海の上へ上がることを許された日のことです。
「人魚はある年齢に達するまで、海の上へ上がってはいけない」――これは、何代か前の王様の決めた法律です。そのため、サクラ姫は今まで、周りの年上の女官人魚や近所の八百屋夫婦などから海の上の様子を夢のように思いながら聞いていました。
そして、それがついに叶った日。
年上の人魚たちと一緒に、サクラ姫は小さな尾っぽで一生懸命海の上へと漕ぎ着きました。
生憎と運悪くその日は、海の上は嵐でした。夜の闇の中に、波飛沫が高く上がります。しかし、人魚のサクラ姫たちにとって、それがどれ程のことでしょう。言うなれば、少し荒っぽいメリーゴーランドです。
「きゃーきゃー」
「…せーの」
「あははははっ!」
皆で手を繋いで大きく来た波に乗ったり、ぐるぐると渦を巻く海にワザと入って目を回してみたり。「楽しいねー、サクラ姫―」と、同い年の少女から話しかけられて、サクラ姫も笑顔で応えます。
そんな中、ある少年が遠くを指差して叫びました。
「――あ!何アレ!?」
彼が指す先には、チカチカと何かの明かりが瞬いているのが見えます。
初めて見るそれに、サクラ姫は首を傾げましたが、すぐさま隣に居た八百屋の奥さんに尋ねました。
「…あれは?」
サクラ姫に指を指され、八百屋の奥さんは目の上に手を当てて、遠くを見るように少し目を細めました。それから、安心させるように彼女に微笑み、
「……ああ、アレはヒトの『船』ですよ」
と答えました。
「フネ?」
「そうです。…ヒトは我々、人魚と違ってエラや尾鰭や水掻きのようなものが無いので、泳ぐのが苦手なんだそうです。そのために、ああした木で造った箱物に乗って海の上を移動するとかって話ですよ」
「……それが、『フネ』」
「そうです。少し波が荒いので、気を付けなければいけませんが…」
八百屋の奥さんは、言いながらそっとサクラ姫の顔を覗き込みました。
「……行ってみます?」
そう尋ねると、サクラ姫は一旦目をまん丸に開いてから、大きく頷きました。その顔は、好奇心のためか少し赤らんでいるようにも見えます。そんなサクラ姫の楽しそうな笑顔を見て、八百屋の奥さんも満足げに頷きます。
その様子を見ていた周りからも、
「サクラ姫、あっち行くのー?だったら僕もー!」
「あっ、それならあたしも!」
後から後から、続々と自分も行くという声が上がります。その場は自然と、「じゃあ皆で行こう」ということになりました。
「サクラ姫―、早く早くぅ」
「こっちだよ、サクラ姫―!」
前方の方から、手を振りながら声がかかります。こう暗がりの中では、顔を見分けることは出来ませんが、声で判断することはできるようです。
「じゃあ、皆で行こう」――そういうことになれば、さっそく年若い者たちの間では競争になるのが常です。
当然のように、「俺が一番」「僕が一番」という話題になり、第1回早泳ぎレースが開催されました。ゴールは、例の明かりを放っている船の、前方の船底です。
まず、泳ぎの得意な少年が先頭に出ました。その後に、先程「俺が一番」と言っていた少年が続き、さらに少女が二人続きます。ちなみにサクラ姫はというと、最後尾の方でビリ決定戦を繰り広げています。
「サクラ姫ぇ、無理しなくて良いから気を付けてぇ」
後ろの方から心配そうな八百屋の奥さんの声がします。
泳ぐにつれて、小さな明かりに照らされた、船の輪郭が段々はっきりと見えてきました。
中々に大きな船のようです。――海面から見上げるとまるで高い高い波のよう。柱は天を突くようにも見えます。本来、大きく広げられているはずの帆は嵐のために綴じられていましたが、それでも強風に弄られてバサバサと大きな音を立てています。また、船の先端には、木で彫られた女性の像が掲げられているのが見えました。
「うわぁ…大きい」
思わずサクラ姫は声に出して呟きました。
あまりにも感心して泳ぐのを止めてしまったので、ビリ決定戦のライバルからは遅れてしまいましたが、この位置からは丁度船が良く見えます。
船の甲板に付けられたランプは、波に揺れる船に合わせるように大きな幅でゆらゆら揺れています。そして、その上をバタバタと走る数人の人影。さらに近くまで泳ぐと、その声まで聞こえます。
「……がどこに行かれたのか知りませんか!?姿が見えないんです!」
「ああ……なら、さっきそこに居たぞ」
「本当ですか!?ありがとう!」
そうして、剣を担いだ身長の大き目の男性が指さした方向に駆けていく女性の姿が見えます。
その向こうでは、船乗りと思われる男が数人がかりでロープを引っ張ったり、あるいは怒号のような叫び声が飛び交う中で団結して船の柱や荷物を固定するなどの作業を進めています。
こんなに騒がしい様子は、サクラ姫にとって珍しい光景です。
黒い波が船をぐらぐらと揺らし、そのたびに悲鳴が上がるのが聞こえます。船の上の方まで波が乗り上げて、甲板を濡らし、そのせいで転んだり流されかける者も居るようです。そんな中で、
「王子!」
という、誰かを呼ぶ声が聞こえました。
サクラ姫が目を転じると、甲板の武骨な男達に混じって小柄な少年が作業を手伝って、ロープを引いているのが見えました。
「…ああ!丁度良かった」
その声に応えて振り向いた彼が、自分に向かって駆けてくる女性を頬を緩めて見て言いました。一方、笑いかけられた女の方はというと、前にもまして大声で怒鳴りつけます。
「あなたは!何をなさっているんですか!?ここは良いですから、早く船室へ入っていて下さい!」
そう言いながら、腕を引いて彼を連れて行こうとしますが、大の大人が力任せに引いても、足に根が生えたように少しも動きません。
「駄目だ。…このロープを…どこかに結んでしまわなければ…」
そのロープは、帆を綴じるためのロープでした。しかし、綴じたものが解けかかり、今手を離してしまっては帆が開き強風に煽られて破れてしまいます。
慌てて彼女も少年に続いてそのロープを引いて柱に括りつけようと踏ん張りますが、解けかけた帆が風を受けて引き戻そうとするため、中々上手くいきません。また、大きく船が揺れるたびに体勢が崩れ、ロープが緩みます。波が高く上がり、甲板と二人の体をぐっしょりと濡らすのが見えました。
(頑張って…頑張って)
そんな二人に対し、サクラ姫は手を痛いほど握りながらじっと応援を続けます。何か出来るならしてあげたい気持ちは十分なのですが、何分今、彼女が居るのは海の上です。
そんな二人の後ろで、一旦沈み込んだ波が高さをましてまた現れ――
「あっ!危ない!」
その様子を見ていたサクラ姫が大きく叫びました。その声が聞こえたかのように少年が体を硬くしたのが見え――
(――!!)
二人をその波が飲み込む寸前に、思わず両手で顔を覆い硬く目を閉じました。サクラ姫の脳裏にはすでに、その波に飲み込まれる二人の姿が浮かんでいます。しかし、
「ちっ!」
同時に、舌打ちと共にその波の中に踏み込んだ人影がいました。
雪崩のような海水の中に飛び込むと、ロープの端を掴み、少年と女性の肩の辺りを引っつかむと、手にしたロープを二人もろとも柱に巻きつけます。
ザザ――というような音を立てながら巨大な波が引いて行きます。と、その中からロープで柱に括り付けられた三人が現れました。
どうやら、二人とも流されずに済んだようです。目を開けたサクラ姫は、ほっと溜息を吐きました。
「…く…っ」
甲板の方で、二人の声が聞こえます。女性の方は水を飲んでしまったのか、激しく咳き込んでいます。サクラ姫にはわからないかも知れませんが、彼らを助けた男は、先程の剣を担いだ男でした。
先に正気づいた少年の方が声を発します。
「――黒鋼っ…」
「お前何やってんだ!!」
間髪入れずその少年に、黒鋼――と呼ばれた剣士が怒鳴りつける声が聞こえます。「あと少しで流されるところだ!」「馬鹿かお前は」「もうちっと考えて行動しろ」等々、恐らく心配してのことでしょうが、揺れる甲板の上でとてもそうとは取れないような罵詈雑言が続きます。
「黒鋼!それよりも――」
言いながら、ようやく呼吸を取り戻した女性が彼に駆け寄ります。
「早く帆のロープを!」
「!?」
その言葉にロープの続く先の帆を見上げ、彼らが何をしようとしていたのか理解したようです。慌てて自分達の周りのロープを解くと、再び柱にしっかりと括り直します。二人がかりで持て余していたものを、一人でもそれ以上の速さで進めて行く彼を彼女がぼんやりと見つめている間、もう一人の方は何故か辺りに下がったランプを片手に海上を照らしていました。
「――おい、何やってんだ!手前ぇは奥に引っ込んでろ!」
その背中に、柱にきっちりとロープを巻きつけている黒鋼が驚いて「死にてえのか!?」と怒鳴りつけます。
「おい蘇摩!ぼーっとしてねえで、そこの小僧を中に連れてけ!」
「王子!?」
蘇摩――と呼ばれた女性が、気づいて慌てて手を伸ばします。
「王子!そちらは危険です!船室に戻りましょう!?」
まるで少年の小さな背中を隠そうとするかのように荒れ狂う風が、彼女の短い髪を弄るのが見えます。「早く行け!」と、黒鋼の怒鳴り声が空気を震わせるのが耳に届きました。
「さあ、王子っ!」
しかし、差し出された手に一旦振り向いて彼は小さく首を振ります。
「――海から!」
波の音に負けないような声で怒鳴る彼の服が、大風に推されて翻るのが見えます。
「さっき、声が聞こえた!誰か…落ちたのかもしれない!」
「「――なっ!?」」
その言葉に蘇摩と黒鋼が同時に声を上げました。そして「だから――」
と言いかけたその瞬間、何かを見つけた彼が息を呑むのが見えます。同時に一際高い波が船を襲い――
「王子っ!」
「!」
「ちっ――お前らっ!」
「危ない!」
サクラ姫は、その瞬間水に呑まれ足を滑らせる少年の姿を見つけました。少年に向け、手を伸ばした女性の姿と二人の居た方向に向け大きく飛び出した男の姿を見ていました。
そして、その波が甲板を洗いあげるかのように引いていく際に、ドボン――と何か大きな物が落ちたような音がしたのを聞いていました。
「――王子っ!」
「おいっ!」
上から二つの悲鳴にた叫び声が聞こえた瞬間、はっとサクラ姫は我に返りました。
(……そうだ…!)
意を決すると、海の中に音を立てて潜ります。丁度その頃、サクラ姫は、先程八百屋の奥さんから聞いた話を思い出していました。
(ヒトは泳げないって。…ぼーっとしてる場合じゃない。助けなくちゃ!)
さっきの人影を探して、深い海の底の方から海上近くまで――目を皿のようにして探します。一方、黒い波は不吉な泡を立てながら彼の姿を隠すように蠢いていました。
(…さっき、ちょっとだけど光が当たって顔が見えた)
サクラ姫は、先程見えた彼の顔を思い浮かべました。当たり前かも知れませんが――知らない顔の少年。その姿はおそらく彼女とそう変わりの無い年齢のように見えました。
(目が、…合ったのかと思った…)
思わず頬が熱くなるのを感じます。
折り悪く視界を遮るように、曇天からしとしとと雨が降り出しました。空が暗さを増し、船から当てる光では海面の中までは照らせないようです。
「…姫様どうしたの?」
という周りからの問いかけに、サクラ姫は協力を求めます。
「…ヒトの…男の子が海に落ちたの!どの辺りに居るか知らない!?」
すると、他の子供たちも集まって来て話に加わります。基本的に人魚はお話好きなのです。
「どうしたのサクラ姫ぇ」
「遊ばないのぉ?」
「…ごめんね、ヒトを探してるの。誰か見てない!?海に落ちた子」
すまなそうにそう言うと、その中の一人が思い出したというように答えてくれました。
「男の子なら、さっき見たあ」
「――どこ!?」
慌てて彼女に詰め寄ります。すると、彼女はサクラ姫の気迫に推されたように
「あっち」
と小声で岩場の方を指指しました。
「ありがとうっ!」
彼女にお礼を言って、サクラ姫は言われた方向に慌てて泳いで行きました。その後ろでは、子供たちが少し残念そうに指をくわえて見ています。
その辺りは大小の岩がゴロゴロと転がり、まるで岩の林のようです。また、辺りの岩が丁度防風林のような役割をも果たしているのか、比較的その辺りは波も穏やかに凪いでいます。そして、その岩の林の中の大岩の上に――
(あ)
彼が、寝転ぶようにその岩の上で仰向けに横たわっているのが見えます。サクラ姫は、慌てて彼の元に泳ぎ寄りました。
近付いてみると、彼の顔がはっきりと見えます。
茶色い短めの髪に、普段は健康そうな肌の色なのでしょう。やはりというのか、日の光のあまり届かない海の底で暮らしているサクラ姫よりも彼のほうが少しばかり色が黒いようです。――しかし、それも海の中で多少青ざめたように見えました。
おまけに、同様に青ざめた口元からは弱々しい空気が泡となって漏れているのが見えます。サクラ姫は、無言でそんな彼の上体を起こすと不安そうにひしと抱きしめました。と、その時二人を包むように影が被さり――
「サクラ姫―、見つかったー?」
という声が頭上から聞こえました。振り仰いだ先には先程の少女が大きく尻尾をくねらせながら、こちらに近付いてくるのが見えます。さらにその後ろから心配そうな顔をした年上の女官が泳いできているのが見えています。
「あらあらまあ…姫様、ご無事ですか?」
サクラ姫の腕の中で気を失っている少年にも目を配りながら、かなり高速な泳ぎで近付くと、開口一番に彼女はそう尋ねました。
「わたしは平気。…でも、この人が…」
「おやまあ…普通のヒトですのね。それも、サクラ姫様と同じくらいの年齢の…」
そう言いながら、女官がそっと彼の額に手をあてがいます。外傷は特にありませんが、どうやら軽い脳震盪を起こしているようです。
「…水に落ちた時に脳震盪を起こしたようですね。それに水も少し呑んでしまったみたいで…」
「彼を助けたいの!どうすれば良いの!?」
彼を抱きかかえたまま、サクラ姫が必死の表情で叫びます。そんなサクラ姫に、女官は安心させるように微笑みかけます。
「とりあえずは、すぐさま陸に連れて行けば恐らく…」
それから、「私がその方を陸までお運びします」とサクラ姫の方に腕を伸ばしました。「さあ」
しかし、サクラ姫はその女官にすまなそうに首を横に振ると意を決したように言いました。
「良いの。わたしが運ぶ」
「しかし…」
言いよどむ女官に、サクラ姫が笑顔で応えます。
「わたしが連れて行きたいの…お願い」
「……」
女官は困ったように眉を寄せましたが、さすがにサクラ姫にお願いされては、もうどうすることもできません。海の国の王であるサクラ姫の兄に劣らず、彼女もサクラ姫には甘いのです。最終的に、「仕方ありませんねえ」と、彼女も微笑みました。
「……それではサクラ姫。これだけはきちんと守っていただけますね?」
最後に、女官は一つだけ条件を付けました。
コレも、先々代の王が定めた法律なのですが――「決して人魚の姿をヒトに見られないこと」。そして、約束として「どんなに遅くとも夜明けまでには帰って来てくださいませね」という条件が付け加えられました。
本来ならサクラ姫に甘い女官の彼女もサクラ姫に付いて行きたいところでしたが、サクラ姫が本当にすまなそうに「平気だから、心配しないで」と言う言葉に、しぶしぶ引き下がりました。
そんな彼女に向けて、サクラ姫は後ろから少年を抱きとめる形で牽引しながら笑顔で声をかけます。その尻尾が大きく水を掻くたびに、女官が不安そうに大きく腕を振るのが見えます。
そんな彼女を勇気付けるように、サクラ姫は元気良く叫びました。
「行ってきます」
牽引されて行くその最中、――ほんの暫くの間でしたが、彼が気を取り戻し、相変わらずの濁流の中で目を薄く開きました。
その目には、一生懸命泳ぐサクラ姫の顔が真近に見えます。また、背中からは彼女の暖かな体温が衣服を通してやんわりと伝わるのを感じました。
(…ああ、この人が…)
サクラ姫は気づきませんでしたが――その顔を見つめながら、彼の意識は再び深い闇の中に落ちていってしまいました。
※あとがき
人魚姫パラレルバージョンです。めっさなーがーいー!幾つに分裂する気だ。コレ。
ちなみに、王子は…サクラ姫ときたらあの人です。何となく名前出してないですけど。…わかります?
彼の親類縁者で笑いを連れてこようと考えているので、次回はギャグ系ですね。クロウさんじゃありません。ありえない親類縁者です。勝手に親族にしてます。
とりあえず、次回魔法使い出てきますから。魔女役ですね。…あの人です。(←せめて想像を裏切れ自分)
BY dikmmy
(1月18日一部変更。今更)
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