車の近くで、どさりと何かの倒れる重い音。
意識を取り戻したのは、その音と、それからその直後に聞こえた、けたたましい蹄(ひづめ)の音のせいでした。
そろそろと頭を起こして、辺りを見回します。控えめなカンテラの明かりに、ツナは二、三度目を瞬きました。
――どうやら、ほんの一時眠ってしまっていたようでした。
「ふあ…」
開きかけの目をこすり、窓枠に寄りかかりながら小さな伸びをします。
窓の外は、目をつぶるちょっと前に見たのと同じ、墨を流しこんだような黒一色。周りの民家はもうすっかり灯を落とし、その闇の中で影のように息を潜めてたたずんでいるのが見えました。
暗闇の中で、少し古い布の匂い。カンテラ周辺では、物の燃える匂いもします。
馬車の中はそれは酷く冷え込んでいて、かろうじて暖かいような気がするその一角に、少年は思わずホッとしました。
ずり落ちた毛布を一つ首元まで引き上げて、しっかりと抱えこみます。それほど厚手のものではありませんが、無いよりは大分マシでしょう。毛布の暖かさを感じながら、小さく身震いしました。
「…――あれ?」
ふと、脳裏にある疑問が浮かびます。
(この、車?)
首をもう一度伸ばして窓の外を覗きます。窓ガラスに触れた手から、外の寒さが直に感じられました。
――もう一度確認しますが、先ほど確かに、馬の蹄の音が長く長く、この耳に聞こえたのです。
また、こんな時間に馬で移動するなど、昨今の泥棒の暗躍もあり、自分たちの他にいるとも思えませんでした。
目を皿のようにして覗き込みます。窓の外は相変わらずの闇の中。けれども、その中に浮かぶ家々の姿もまた、角度から何から先ほどと全く変わってなどいませんでした。
疑問は、確信に変わります。
車だけその場に張り付いたように、進んでいないのです。
もう一度瞬いて、今度はゆっくりとその大きな目を見開きます。
「なん…っ」
何で、という短い疑問すら、少年には口にする時間がありませんでした。
車内に入り込んだ冷ややかな風が、そっと少年の頬を撫でていきます。
その直前、言う間もなく、元凶ともいうべき漆黒の男が、二人を隔てる木製の重いドアを開けたからでした。
「…ガキか」
闇の中から呟かれたその声は、変にしっかりと少年の耳に届きました。
* * *
――その人は、闇の中から浮き出たように見えました。
カンテラの明かりをかき消すようなその姿は、全身が黒一色。
闇色の外套に、同色の中折れ帽。髪の色もそうならば、帽子の影で隠れるようにしているその瞳もまた、同じ漆黒の色合いをしています。
もみ上げだけがカールされたように丸まって、特徴的と言えなくもありません。
また、一瞬で隠されてしまいましたが、黒光りする拳銃が見えていました。
毛布に包まりながら、ツナはそっとその姿を見上げました。
ひょろりと背が高く、これだけ近くにいるのに、人の気配のようなものが薄すぎるような。そんな不思議な人。
尖った空気と、一方で静謐な。何も無い真っ白な空気。
野生の獣みたいな、鋭い目をして。
殺し屋みたいだ。
一瞬、そんなことを考えて、それからもう一度思い直します。
何もかも混じりけのない黒一色の。
(…綺麗な色)
まるで、それが聞こえていたかのように。
ふと。
「あ」
心臓をつかまれたような気がして、少年は薄手の毛布の中で、小さく身じろぎします。
その正面。漆黒の帽子の影で。
彼と目が合った気配がしました。
ツナにとっての人生の転機は、要するに単純なところ、両親が亡くなったことからでした。
おっとりしていて夢見がちな優しい母と、得体が知れない雰囲気をかもし出しながら、それでもしっかりと妻を子を愛し、守ろうとする力強い父。
おしどり夫婦。
そう呼ばれて、近所でも評判の、本当に仲の良い夫婦でした。
この住宅街の隅の辺りに小さな一軒家を買って、そうして親子三人、慎ましく暮らしていたのです。
もともと駆け落ちのように結婚した二人だったので、親族は居ないも同然でした。
残されたのは、ちょっとした遺品と、財産と呼べるほども無い少量の荷物や家具。それらを何とか引き払い、これからツナは、先日かろうじて見つかった遠い親戚のところに引き取られていくところでした。
――見たこともない父親の親戚。
ふいに父親の阿呆な笑い顔が思い浮かんで、鼻の奥がツンとします。
耳に痛いほどだった、大きな野太い笑い声。寄り添うように聞こえるのは、きゃらきゃらと笑う、母の高い声。
目じりが熱くなったのを感じて、鼻をすすります。
先日説明にやって来たロマーリオという黒服の人の話によると、(なぜか詳しくは話してくれなかったのですが)一応頭にマの付く自由業をしているということでした。
「…仕方ねえな」
溜息。
まるで息をつくみたいに、目の前で例の男が、短く言葉を吐き出します。
目線をじっと合わせて、それから一瞬き。
黒真珠の中に灯る、小さな小さな明かり。
ツナは、しばらくの間その切れ長の黒い瞳が、わずかに細められるのを見つめていました。
「泥棒が盗みに入って、何も盗らねぇで帰りました――じゃあ、格好がつかねえからな」
そう言う彼の肩で、黄緑のカメレオンが面白いものでも見るように、きょろりと瞳を動かしたのが見えます。
「お前」
まるで彼が帽子に手を掛けるのが合図だったかのように――
気がつくと、驚くほど近くに、彼の手が差し出されていました。
漆黒のコートの裾から覗くのは、意外にも肌理の細かい、骨ばった男の手。
一瞬、彼が笑ったような気がします。
「俺と、一緒にくるか?」
――それは、あらかじめ答えの決まりきった質問でした。
マ○ィアって、自由業?(2007/1/16)
2007-09-25改