「それでは皆さん、宿題を忘れずにきちんとお父さんとお母さんに聞いて来てくださいね」

 クラスの先生が教壇から生徒に声をかける。

 それに応える小学校低学年の男女の少し高い声。

「はーい」

 という良い返事。その中の数人が元気良く手を上げているのが見える。彼らの顔にはワクワクしたような笑顔。これから両親にその質問をすることでも考えているのだろう。

「楽しみね」「きっと○○だぜー」

 だとか隣と囁きあう声がざわざわと響いている。

 そしてそんな中に――

「……」

「…ははは…」

 乾いた笑いで情けない表情をするしかないコナンと、いつも通りニコリともしない少女の顔があった。

 

 

 

 

 

名前の由来

 

 

 

 

 

「…ほお、名前の意味か」

 「懐かしいのお」と一人ごちながら阿笠博士が顎を捻っているのが見える。博士は相変わらずの白衣を羽織り、片手に持ったコーヒーを啜っている。その傍で、コナン――新一は乾いた声で笑う。

「は…ははは」

 阿笠はもう一口コーヒーを――ちなみにこれは哀が淹れたものだが――を満足そうに啜ると、無作為に書類が積んであるため乱雑になっている机の端に強引にカップを乗せる。

 

「――ということは、新一の場合は、『コナン』という名前を付けた理由を考えるわけか」

「…ああ。…まあ、『親がコナン・ドイルのファンだから』とか――そういうのになるんだろうけどな」

 そう言いながら、手に持ったコーヒーを音を立てないように啜る。哀はそんな二人のやり取りを横目に眺めながらカタカタとパソコンのキーを叩いていた。

「…決まっているんだったら、別に溜息を吐く必要もないんじゃないかしら」

 哀が目線を二人からパソコンのディスプレイに落とす。問いかけたのは新一に対してだ。先程から何だか疲れたような顔をしているわね――そう呟くのが聞こえる。

 急に割って入った声に、ちらと二人して目線をそちらに向ける。博士の斜め後ろでコナンは「何余裕ぶっこいてやがる」とコーヒーを啜りながら唸る。

「そういうオメ―はどうすんだよ?」

 

それに対し、「そういえば――」と、阿笠が口を開いた。顎の辺りをぽりぽり掻く。

「哀君はどうするかのう」

 眉根を寄せて困ったような表情は、見なくてもわかる。その言葉に、キーボードから一旦手を離し、哀が軽く俯いて顎を捻るのが見える。

「…『音が気に入って』…――とかじゃない?」

 哀が小首を傾げて呟くのが聞こえる。「大体、どっちにしろ仮の名前なんだから、それ程気にしなくても…」という愛想の無い返事。その声に、新一がふと目線を上げた先で「いやいや」と阿笠が首を振っているのが見えた。

「おいおい…」

新一もそれを聞いて疲れた気分で眼を細めて笑う。その先で、阿笠が眉を寄せたままの顔で、再びコーヒーを手に取る。それからパタパタとスリッパの音を立てながら哀に近付いて行く。

「音だけなら、二人で名前を決める時にも言ったが――、わしは哀しいという字の『哀』ではなく愛するという字の愛にするぞ」

「大体なあ…」

 そう言いながら、新一は辺りの椅子に腰掛ける。不意に、

 

「おお、そうじゃ」

そんな新一と、反対に胡散臭そうな目を新一に向けている彼女を見ていた阿笠が、何か楽しいことを思いついたのか、したり顔で頷くのが見えた。交互に顔を覗かれて、思わず哀もその顔を不審げに見つめている。

 

「?」

「……どうしたんだよ、博士」

 新一が阿笠に尋ねる。「んー、何。ちょっと思いついたもんで…」と一旦言葉を濁した博士が、愛しそうに子供たちを振り向きながら微笑む。

「新一と哀君の名前の理由はわしが考えようと思ってな」

 

 

 

 

 

「一体どんなのになったんだろうな…」

 ポケットに両の手を突っ込み、ひっそりと呟く。ザワついた教室の中、振り向くと相変わらず無表情な様子の哀と目が合った。

 あれから翌日――、

「結果は明日、な」

 「ふふふ」――と不気味に笑う阿笠に不審の目をくれつつ、それでも仕方なしに探偵事務所に帰宅した新一だが、昨日の夜から今朝までの間にも不安は募るばかりだった。

子供の体故に、それでもあっさり寝付いてしまったのは何だか腹立たしかったが――可笑しな理由になるのではないかと少し心配していたのだ。

 

(……親父ギャグだったら承知しねえぞ)

不意に発生したその予感に、思わず頭を抱えそうになる。――常日頃の博士の態度を考えると、ありえそうな気がする。あのオヤジならば。

「…はは」

 昨日からずっと張り付いたままの乾いた笑いを浮かべる。

 そんな様子の新一を、哀が先程から呆れたような目で観察しているのが見えた。

「…さあ、どうかしらね」

 あまり興味が無いという表情で――どうやら先程の独り言を聞いていたらしい哀が応える。

 

 

結果――つまりはそれぞれの『名前の理由について』という宿題の――を受け取るため、今朝阿笠邸に立ち寄った時、博士からは「その時までは開けるなよ」と、それぞれに封筒が一つずつ手渡された。

それに対し頷いた手前、(何となくだが)博士に悪い気がして、気になりつつも今まで手を付けなかったわけだが。

 

 

「………」

 手元の封筒をひらひらさせながら、新一は「チョット失敗したかもしれない」と考え始めていた。

茶色で線の入った、いわゆるお徳用封筒だ。中には、外からは文字が見えないように半分に畳んだ紙が一枚程入っている。ちなみに、哀も同様の封筒で、それを静かに机の上に出していた。

「さあ皆?宿題はきちんと持ってきましたか?」

 という声に、「はーい」という素直な返事が返る。その声を、相変わらず新一は疲れた顔で頬杖をつきながら、哀は無表情で聞いている。

 教壇に立った教師が、机の間をゆっくりと歩きながら、その内の生徒数人に声をかけて回っているのが見える。

その女教師の目が、哀の封筒の上に止まったのが見えた。

「――あら、灰原さんのは封筒に入れてもらったのね」

「…はい」

 子供らしい完璧な素直さとは言わないが、――それでも持ち前の取っ付きにくい態度を崩して哀が薄く微笑む。

 

「ちょっと良いかしら?」と言って封筒を裏返すと、テープか何かで留めた様子もないようだ。

「灰原さんは、お母さんかお父さんからもう、名前の由来――どうしてその名前にしたかとかそういうことを聞いているかしら」

 そっと問う教師に、彼女が「いいえ」と小さく首を振るのが見える。

「…まだ。…それに書いてあるんです」

 言いながら、お徳用封筒を指差す。封筒の表には、『灰原哀』の文字。――おそらく、新一のものと間違えないようにと博士が書き加えたのだろう。

「…そう」

 その言葉に、教師が封筒を哀の手元に返すのが見えた。

 

「…――なら、先生も灰原さんと一緒に見ても良いかしら?」

 軽く膝を折り、哀と目線の高さをほぼ同じようにして尋ねる。斜め後ろの出来事な上に、哀との間に丁度教師が割り込む形で立っているために良くは見えないが、哀が少し戸惑ったように教師と封筒、それからその奥に居る新一と――さらには、もしかするとここには居ない阿笠とを――交互に見比べているのがわかった。

「…ええ」

 暫く考えあぐねていた哀が小さく頷く。

 小さな指で封筒の口から半分に折られた白い紙を取り出すのが見える。周りの生徒も、どんな内容だろうかと興味を示している。

「わぁ〜、哀ちゃんのどんなのだろう」

 歩美の嬉々とした声が聞こえた。

 

 

 

 ――紙を開く静かな音が、妙に教室の中で大きく響く。

 張り詰めたような緊張感に、誰かが唾を飲み込む音でさえ目立つようだ。哀の隣に腰を低くして並んだ女教師が、文面に無言で小さく目を見張るのが見える。

「……」

「……」

 同じく無言で紙に書かれている文字の上を上下していた哀の口元が、微妙にほころぶのが新一の位置からわずかに見えた。照れたように見えなくもない。

 何だかわからないが、良いことが書いてあったらしい――そう判断して、新一も小さく微笑む。軽く薔薇色に染まった彼女の頬を見ながら、何だか安心する。

 そうやって笑う彼女は、年相応だとかそういうことは関係なく――可愛らしい。

 

ちらと視線を転ずれば、女教師もそんな彼女を見つけて微笑んでいる。彼らの他に、こんな珍しい笑顔に気付けた者は、おそらくそうは居ないだろう。彼女を良く見ているからこそ気付く――哀の笑顔は、そういうものだ。

歩美たちが顔を見合わせてにっこりするのが見える。それだけでも贅沢な気分だった。

「…読んでも良いかしら?」

 哀の肩にそっと手を置いてから、女教師が尋ねる。それには、哀がただ無言で頷いたのが見えた。

 

 

 

 哀の手から手紙を受け取り、女教師がすくと立ち上がる。いつもなら有り得ないくらい水を打ったような静かさの教室全体に目を走らせるのが見える。

 子供たちの目は先程から確かに好奇心に輝いている。

「…こほん…」

 緊張をしたのか、小さな咳。それから、柔らかな表情で彼女を見下ろしながら読み上げ始める。「…『私達があなたを哀と名づけたのは――』」

 

 

 

 

 お父さんと、あなたが生まれた時に、何となく名前は『アイ』にしましょうねって、話をしました。可愛くて綺麗な音だと思ったからです。お互いに、「それが良い」ってなってね。

 それで、どんな字にしようかしらって。色々な本を見ましたが、漢字を決めかねていました。そんな時に、姉さん(あなたからすると伯母さんね)からハロウウィンについての話を聞きました。

 ハロウウィンというのは、外国のお祭りです。哀ちゃんは知っているかも知れないわね。

 お化けの格好をしたりして、子供が近所の家にお菓子を貰いに行くあのお祭りのことです。(あの世から帰ってきた人や、遊びに来た魔女やお化けたちと触れ合うんですって。)

 『哀』という名前の漢字は、哀しいという意味でしょう?

 あなたはこの名前をどう思うか知らないけれど、これにはきちんと理由があるのです。ハロウウィンで、何故子供たちがお化けや魔女の扮装をするかというと、そうやってお化けと同じ格好をすることで、魔除けをしているんですって。だから、この名前は、あなたに哀しいことが起こらないように。幸せになれるように。

それを願って付けた名前なのです。

 

 

 

 

 

 

 

                                                        

 

 

 

「――おお、お帰り。二人とも」

 阿笠が、帰宅した新一と哀を出入り口で迎え入れる。その顔には満面の笑顔。ある意味悪戯の成功した子供のように朗らかな顔をしている。部屋に上がると、かたん――そっとドアを閉める音が背後でする。

 相変わらず書類を積み上げた机の端から飲みかけのカップを持ち上げると、スリッパの音をさせながら博士が緩慢な動作で近寄ってくる。

 

 近付いてくる博士は、昨日と変わらない白衣を着ている。今日も丸一日家の中に篭っていたんじゃないのか――少しは散歩をさせなければと、まるで腹の出てきた両親を心配する子供のようなことを考えている自分に気付いて、新一は片頬だけでニヤリと笑った。

 そんな新一の心情に気付いた様子もなく、遅れてリビングまでやって来た阿笠が、一旦コーヒーを口元に運ぶのが見える。そうして湿らせた口をゆっくりと開く。

「今日はどうだったかの、新一?」

 今日は――などと大雑把なことを聞いてはいるが、実際は例の『宿題』のことについて聞きたいのだと、その目が語っている。阿笠は、何となく照れたように口元の髭を弄っている。

「……まあ…灰原の方に関しては…」

 そんな博士に、ニヤリと口元を歪める。ソーサーからコップに黒い液体を注ぎながら答える。白いカップに注がれたコーヒーからは、香ばしいとは程遠いような、何時頃タイマーをセットしたのかが偲ばれる匂いがしている。

「博士にしては良かったんじゃないか?」

言って、コーヒーに口を付ける。「まさかあんな洒落たものになるとは思わなかったよ」

 

「ふむ…」

 その返事に、「ワシにしてはとはどういう意味じゃ」と一旦文句を言ってみているが、結局、博士は満足そうに頷く。目を細めて哀の方を眺める。

 当の本人である哀は、相変わらず――家に着くなりさっさとパソコンを立ち上げて、黙々とアプリケーションを起動させているのが見える。それでも、キーを打つ手が何となく嬉しそうな気がするのは、新一の気のせいだろうか。

「――なあ灰原…?」

 と、同意を求め、そちらの方に向けて声を投げかける。

 そんな新一の声に、哀がふと手を止めるのが見えた。目線だけで振り向いて、右手の人差し指を口元に軽く添えている。

「…そうね」

一言だけ呟いて、再びキーボードを叩きだす。それを見て、博士がまた満足そうに微笑むのが見えた。灰原は相変わらずの無表情だが、実際はそれだけではないということを、博士も知っているのだ。彼は唯一、新一と同じくらい近くで彼女を見ている人物なのだから。

 

 

 

「――では新一の方は?」

 一人でほくほく頷いていた博士が、視線を新一に戻す。新たに阿笠から話題を振られた新一は、今度は逆に額に縦皺を入れた。哀のものがまともだっただけに、――新一にとってアレは褒められた物ではなかった。

「……なあ…アレは嫌味か何かか…?」

 疲れた気分で呟く。

 そんな新一に、博士が「はて?」と言いながら首を傾げる。口元の髭を弄りだすのが見える。だが、それを見て確信する。そのうっすらと浮いた悪戯好きな笑顔は、疑うまでもなく――ワザとだ。

 

片目を瞑り、阿笠をじっと睨みつける。それから、溜息を吐きながら立ち上がると、ソファーに鞄を取りに行く。アレは鞄の中にあるのだ。

ランドセルの蓋を開けると、教科書の間に挟まるようにして入っていた茶色の封筒を取り出す。その中から、哀のものと同様に半分に折られた一枚の紙。それを開いて、眉根を寄せたまま読み上げる。

「『私達があなたをコナンと名づけたのは、推理小説が好きだったことが大きな理由でした。』…」

――まあ、ここはまだ良い。ちなみに、哀の綺麗に折られたままの手紙とは異なり、新一の手紙には両手の位置に大きく皺がついている。それというのも、後に続くコレを見た途端に、今と同様にくしゃりと握り潰したためだ。

 

「……『優作にしようかコナンにしようか迷いましたが』…」

 

 苦虫を噛み潰したような顔とは、おそらく今の自分のような顔のことを言うのだろう――手紙に再びしっかりと握り跡を付けながら、新一は思わず呻いた。

「――何でそんなモンで悩まなきゃいけねえんだよ!?」

 思わず、博士に食って掛かる。それに対し、阿笠があっけらかんとして答えた。

 

 

 

 

「…そうかのお?…ワシは凄く良いと思ったんだが…」

そう言って朗らかに微笑む。

 

 

 

 

 

 阿笠は知っている。新一がどう思っているかは知らないが――優作が、実は新一にそんな風に思って欲しいのだ、と。新一が生まれるよりも前から優作の隣に住んで、親しくしてきているからこそわかる。

 だからこそ、コレは意地悪でもなんでもなく――呆れた顔をしている新一におどけてウィンクをしてみせる。きっと彼はさらに嫌な顔をするだろうけれど。

 

 

「――立派な名前だろう?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※後書き※

 哀ちゃんの名前が、どうにも気になって書いてみたんですが。…微妙だなあ。彼女の手紙の部分だけ見にくい色にしたのはワザとです。微妙すぎて。なんなら飛ばして下さい。その方が清々する。(多分)

 この話書きながら、「――洒落たものになるとは…」…なってると良いなあ(汗)…「嬉しそう」…だと良いなあ(困惑)…――という感じでした。

BY  dikmmy

 

 

 

※ブラウザのバックでお戻り下さい。