海を蹴って陸に上がる。波間から覗く、懐かしい景色に目を細め。

 ――見つけた瞬間、この心臓以前に。命が止まるかと思った。

 

 

 

 

 

 

人魚姫異聞〜外伝

 

 

 

 

 

 

 

 この家の本来の主のご帰還に、音もなく開いたはずのそのドアの音に気付くような。

 そっとその人に顔を向けて。そうして、眉を顰める彼女にやんわりと微笑みかけて。「…ああ、おかえりなさい」

 そう、静かに声をかけて。

 

 

 本当はもう、ずっと前に帰っていたのかもしれないけれど、そんなことにはちっとも気が付かなかった。相手も、悪戯に気付かせなかった。すっと傍に立たれ、そうして優しく肩に手を置かれるまでは。

 椅子に座ったまま見上げた彼女は、本当ならば、自分と横に並べば同じか、あるいは背が低いくらいなのに、それでもいつまで経っても彼女からはそうして見下ろされているような気がする。

 自分はいつも俯いて、しゃがんで。いつでも彼女を見上げている気がする。

 

(…立てば良いのかもしれないけどねー)

 

 それでも彼女の前で、今の自分が立ち上がれる気がしないのも本当だった。元気がないのとも違う、気力がないのとも違う。ただ、何かが足りなくて。今、自分が立ち上がるのに、多分勇気とか、自信とか、足りないのはそういうもので。

 

 

 やらなければいけないことはある。

逆に、やってはいけないことも。その両方があることを知っている。世界にはその両方があって。

 

 

 

シュンシュンと音を立てるやかんの音に、ようやくキッチンの方へ首を向けると、そりゃあもう怒ったみたいに、やかんが湯気を噴き出しているのが見えた。それを見て、のそのそと椅子から降り、立ち上がり、そうして彼女を見ると、やはり自分より背は低くて。

そのことに、変に、あーやっぱり、なんてホッとする自分がいる。

長い黒髪に、常人とはどこか思考のズレたような服装を、それでも完璧に着こなして彼女が――『次元の魔女』と呼ばれるその人が、そっとこちらを見上げていて。

すっとその脇を通った直後、

 

 

「…彼女が来たのね」

 背後から聞こえるのは、疑問ではなくて確認。

 振り向くと、彼女が腕を組んで、いつも通りの至極平然とした顔でこちらを見ているのが見えた。

 

「…あー、わかりますー?」

 

 首を傾げて笑い顔を作ってみるが、それでいつも通りの自分の顔が作れているかどうか。

「やっぱり知ってたんですねー」なんて。そんなことを、ガスの火を止めながら言うのは、どことなく負け惜しみの言葉のように響いたけれど。

「…驚かないのね」

 意外そうとも思えない顔で彼女が呟くのが聞こえる。そのことに、ほとんど苦笑気味で口を開いて。

「…あなたなら、知ってるかと、…思わなかったわけではないんです」

 やかんのお湯を少々ポットに移しながら言う。この言葉も、負け惜しみには違いないけれども。強がりに違いないけれども。

 

「知っていて、俺に任せたんじゃないかなー、って」

 湯気の向こうに笑いかけると、彼女が肯定とも否定とも取れない仕種をして。そうして、小さな音を立てて空いた方の椅子に腰かけるのが見えた。

 

 

「可愛い子だった?」

 テーブルの上に肘をついて、そうして行儀の悪い座り方をする。人によってはしどけないとか、妖艶なとか、そういう言い方をされるようなものなのかも知れないけれど。着物の裾からこれ見よがしに白い足を覗かせて、相変わらず、そんないつも通りの座り方。

 その様子を横目で一旦確認して、「そうですねー」と返事。

 

「どんな感じの子か、あたしまだ会ったことないのよね」

 そう言って、壁の隅の方を拗ねたように睨んでいる。

「…あー、茶色の髪でー、小さくてー、ほわわーんて感じの」

 そう説明を付けてやると、彼女が「ふーん」と、関心があるのか無いのかというような声で相槌を打つのが聞こえた。そうして、どこか満足そうに、薄く笑う。

 

 ティーポットとコップを二つ、それからこの紅茶に合うクッキーを一皿、お盆の上に乗せて彼女の待つテーブルへ運ぶ。

「えー、ワインとか無いのー」と彼女はどこか不満そうだけれど。そのことに「あははー」と笑って。

 まずは彼女の目の前にティーセットを一揃え、それから自分の前にも空いたティーカップを一つ。ポットを傾けて、温かな中身をそれぞれのカップに注いでいく。

 

 

「…で、どうしたの」

クッキーを一枚摘みながら、もぐもぐと口を動かして彼女が言うのを聞いて。「あー、彼女ですかー?」と首を傾ける。

 

「…上に」

そう言って上空を指した指は、ただ単に天井を指したわけではなく――海の上を。動詞を入れるならば、「陸の方に連れて行きました」。

「彼女が…そう、望んだので」

 話す言葉がどことなく尻すぼみになるのは、それは彼女の、人を射るような強い眼力のせいだけではなくて。

彼女の様子を伺うつもりで目を向けると、漆黒の瞳が、ひたとこちらを見据えているのが見えた。

その瞳に、反射的に微笑む。

 

「…そう」

 相変わらず関心の薄そうな相槌を打ちながら、彼女がクッキーをもう一枚口に運ぶのが見える。それから暫くの間、口をもぐもぐさせて。

 

 

「…その割には、あまり平気そうじゃあないわね」

 そうして、次の瞬間、聞こえたその言葉に、思わず目を開く。

 

「探し物には会えたでしょう?」

 

 思わず、彼女の妖艶な笑みを見返して。ゆっくりと息を呑む。落ち着きかけた心臓が、また早鐘を叩きだす。

「…それとも、探し人だったかしら」

 人差し指で自分の頬を突きながら、空とぼけたとしか見えない調子で彼女が訂正を加えるのを見て。

 

 衝動的に、机に突っ伏せる。勢いに任せるように前髪を掻き揚げて、同時にきつく目を閉じて。――腰砕けというか、脱力というか。恥ずかしいのか悔しいのか、あるいはプラスの思いだったのか、それすらも良くわからないけれど。

 

合間にようやく動いた口から出たのは、たった一言。この体勢では、おそらくくぐもったようにしか聞こえないだろうけれど。

そうして、投げかけるのは疑問。

「アレもあなたの…」

 ――仕業ですか、と。

(彼も)

 

 その言葉には、「さあ、どうかしらね」と、相変わらず肯定とも否定ともつかない返事だけが返ってきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※後書き

異聞で、さらに外伝って何さ。(← 一人ツッコミ)

しかも、明らかに可笑しな文章が一つあります(自爆)。実は、他の文章と対立してんのね。でも直さないのは、気に入ってる文章だから。

…最近、コミックの次巻辺りで何か展開ありそうな気がしてて、異聞の方が全く手が付けられません。(18日現在)…異聞は、本誌と少しくらい内容を関連付けたい。

外伝は、本誌に無い捏造部分多数にする気満々なので、割と平気なんですがね。

BY dikmmy

 

 

 

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