07何って、言葉どおりの意味だけど

 

 

 

 

 

 

「――アレッ」

 と一瞬、強く響いたその声に振り返る。

 その日は良く晴れていて、時刻は黄昏時にもならない、それはそんな遅くまで他人様の家に――といってもたかが一ノ宮の家に過ぎないのだが――子供を預けておくのは気が引けたためで。

 

 

 このことで一ノ宮に借りを作ったとか、作らないとか、そんなことを考えたわけではなく、それはただ単に、そういった私自身のとても日本人らしい奥ゆかしさと、あるいは、そう――。一ノ宮ならどれだけ迷惑をかけようが何しようが構わないが、春華君たちには迷惑をかけてはいけないなと、心のどこかでほんの少し思ったためかもしれない。

 一ノ宮の家は、明治に入ってから建てた研究会の建物ほどではないにせよ、ヨーコさんという、一ノ宮と一緒に暮らしている(何という奇特な!)という助手の女性がいつも小奇麗にしているためか、それなりに安心して子供を預けていくことが出来る。

 その上、その子供、ロザリーもいつになく彼女達を気に入り、大人しく預けられているという点も大きいかもしれなかった。彼女は気性が難しく、人と接するのもどちらかといえば苦手かもしれない。

 苦手――と考えるのは、あるいは私のただの独断に過ぎず、彼女は普段家に来た者達に対して、たまに独り言のようなものを呟いているが、もしやするとああやって関心を引くことがある種、彼女の他人との関係のとり方なのかも知れなかった。そして、そのことに一ノ宮の家の住人達は一切、怯えも、彼女を遠ざけるような仕種も取らなかった。それも、この家に彼女を預ける一因の大きな一つとなっているに違いない。

 

 

 

 さすがに、私としても彼女をきちんと見守っていてくれるような家にロザを預けたいと思うのは、当たり前のことだろうと思う。

 彼女を奇異なものとして倦厭し、恐れるような者達に、大切な彼女を預けようとは、私としても絶対に思わないのだ。それは例え、どんなに忙しいとしても。

 

 

 そして、仕事から帰りがてら、夕刻にもならぬこの時間に彼の家の前に差し掛かり、「アレッ」――と。

 背後から聞こえたその声に、思わず振り返る。誰か見知った人だったろうかと。

 黄昏時にもならぬこの時に、すでにもう、顔見知りを見間違えたかと。しかし、実際その声には全く聞き覚えがなかった。

そして、振り向いた先の、その青年にも。

 

 

 

 黒の制服には、整然と二列に並んだ、細かな紋章の入った真鍮のボタンに、襟元にも同様の細工が施されている。袖口にも、細工は違えど同様の高価な刺繍が見え、また頭には菊の紋入りの、黒の帽子を被っていた。中でも一番の特徴は、腰のサーベルと、そして軍人独特の雰囲気。

 上背は私と同じか少し高いくらいで、軍人らしい居丈高な雰囲気と、それからどこか人をからかうような気配が、その口元に張り付いたような笑みからうかがえる。

「…何か?」

 と、少し呆然とする気持ちで声をかけると、彼が小さく苦笑したのが見えた。「――ああ、いや…失礼」

 そう言いながら、優雅な仕種で、笑い顔を隠すように口元を手で覆う。

 

 

「…蓮見、了寛先生でしたか」

 その声に、思わず顔を上げて、まじまじと彼の顔を覗き込んでしまう。まさか、自分の知り合いに彼のような人がいただろうか、と。

「失礼。以前、どこかで…?」

 そう口にしながら、じっくりと見てみると――いや、本当はそんなふうに見なくとも――彼は綺麗な顔をしていた。混じりけのない黒檀の瞳に、すらりと通った鼻先。濡れ羽のような髪。

 類は友を呼ぶという先達の教えに倣うならば、それこそ一ノ宮の家にいる春華君とこそ同類だろう。

 

 

 すると、彼が相変わらず口元を覆ったまま「いいえ」と意思表示をするのが見えた。つまりは首を横に振り、そうして新たに口を開く。「…確か、先日…林実直の軌跡を、政府の命により調べられたとか」

「自分が一方的に知っているだけです」――と。

 そのことに思わず、こちらも「ああ」と声を上げて。

 その日のことは、記憶に新しい。いや、新しい古い関係なく、私の頭の中には歴史民俗学者の一人として実直の軌跡は残されている。それは当然のことだ。

「…それで」

 と、目を丸くすると、目の前の彼も薄っすらと親しみを込めて微笑むのが見えた。そのことに私自身、現金にも頬が緩んでしまったことは仕方ない。

 

 

「私の名を覚えていただけたとは光栄です」

 襟元を正し、照れながら応えると、彼がニッコリと笑った。その顔は、軍人らしさ以前に若者らしい、そういった類の笑顔だった。

「…こちらには、どのような御用で?」

 問われて、一旦忘れかけていた用件を思い出す。慌てて体全体でそちらに振り向きかけて。

「あ、この辺りの知り合いの家に、子供を一人、預けているんですよ」

 「その迎えに」と、指でその方角を指し示す。ふと、彼のその笑顔に、どこか暗い影がさっと差したような気がした。「…ほお」

 一旦考え込んだような素振りで、顎を捻るのが見える。

 

 

 

「…一ノ宮、勘太郎先生のお宅ですか?」

 

 

 その台詞に、今度こそ本当に目を見張る。「…おや、民俗学にご興味がおありで?」と。思わずそんなふうに問い返して。

 政府は現在、実学に力を入れるとして、同時に政教分離を図っている。これはすなわち、日本の国教たる神教に対し、日本政府が力を注がないことを意味している。現に、それによって全国のあちこちでは貴重な仏像が倒されたり、あるいは壊されたりするという事件が多発している。

 その多くは、政府が神教を重視しないという方針に、間違った受け取り方をした行き過ぎの行動に違いないのだが、宗教の一端を学んでいるといって良い民俗学にとって、それは大きな事件だった。

 その政府直下、直属であるはずの軍の人間が、あまり出版した本も売れているとは言い難い一ノ宮のことまで知っているとは。

 

 

「以前、一ノ宮先生には、我々軍の中の人間が、英国人宣教師の通訳を引き受けていただいたという話ですよ」

 再びまじまじと見られたせいか、苦笑するように彼が言うのが聞こえる。「ああ、そうでしたか」と笑いかけて。

「あの男が、大切な英国からのお客人の通訳とは」

続けざまに、その笑顔のままで。

「それこそ、先方にご迷惑をおかけしませんでしたか」と、そういつものように言い掛けて。

瞬間――彼が、無言のまま凄絶に笑ったその顔に、その狂気じみた瞳に、思わず口をつぐむ。息を呑む。

 その顔は、確かに美しかったけれど。

 

 

 

 

「…僕は、彼を知ってる」

 

 

 真正面から見据えられたまま、不意に聞こえたその声に、思わず「――は?」と間の抜けた声を出す。話の繋がりが見えない。そもそも彼とは一ノ宮のことだろうか。

しかし動揺を隠せないこちらとは裏腹に、その言葉は、先程とは比べ物にならないくらいぞんざいなものになっていて。その響きは、余程冷えたものになっていて。

「あんたが知らない彼を知ってる」

 そう口にする彼の瞳は、冴えたものになっていて。

 強制的に視線を奪われたまま、向かい合い、そのままで彼が言い聞かせるように囁く声を聞く。先程よりも、ほんの少しだけ顔が近付いて。

「あんまり出しゃばんない方が良いよ」

 その言葉の内に潜む怒気に、威圧感に、背筋を冷たいものが走る。この場を離れたいという衝動とは裏腹に、目は彼の瞳に釘付けにされ、足は言うことを聞いてくれそうになかった。

「一体何の」

 ようやく搾り出せたその疑問の言葉には、彼は無関心で。

 

 

 

「…あの人ってさあ、本当自分のこととなると疎いよね」

 なんて、別の話を始めている。

 そうして一ノ宮の家の方を振り返る彼の瞳は、何故か穏やかで。

「――知ってる?あの人さあ、腕なんかこんな細いんだ」

 そう言って、指の先で小さな丸を作る。軍人らしい、民間人よりもどこか大きめで、頑丈そうな彼の手にかかれば、一ノ宮などその程度のものだろう。その手を睨み返しながら。

「一体何が」

「言いたいのか」と、思わず文句を口に出そうとして。一瞬早く、彼がそれを遮るように、溜息を吐いたのが見えた。その後、やれやれといった調子で首を小さく横に振るのが見え。

 

 

 

「あんたには渡さないよ」

「――は?」

「勿論、鬼喰い天狗にもね」

 ニヤリと口元を曲げて、彼が居丈高に微笑む。「アレは僕のものなんだから」、と。

去り際に、そんなふうな声が聞こえた気がした。

 

 

 

 

 

 

 

「一体何だったんだ」と不思議そうに呟く蓮見の声を背に、彼――頼光は、いつも通りの斜に構えた笑みを取り戻し、そっと口を開く。

(…気付いていないのか)

 対抗しようと、ライバルでいようと思うその気持ちの底に、一体何があるか。

 彼をいつも突っぱねるような態度に出るくせに、そのくせいつだって最後には彼の味方のくせに。

 いつだって、必要以上に彼を気にしているくせに。

(…気付かないのか)

 

 

 ――あるいは、その振りをしているのか。

単純なその二択。しかし、気付かせ過ぎてはならない、あるいは、気付かせなさ過ぎるのもいけない。牽制はしつつ、突き過ぎてもいけない。難しいところだ。そのことに、小さく笑みを漏らす。

 美しい顔に、薄っすらとその表情を広げていくような、人によっては生意気ととるらしい顔で。

 そして、誰に聞かせるともなく、小さく呟く。間抜けそうな顔でこちらを見返した彼に、決して聞こえない程度の音量で、ぽつりと。彼の質問への答えを。

「そのまんまの意味さ」――と。

 

 

 

 

 

 

※後書き※

認められたいからですね。…いや、何がってライバルでいようとするのはさ。

勘ちゃんに認められたいからでしょう、きっと。蓮見さんは。では、何故認められたいか。

…どうでも良い人には認められてもしょうがないっスよね?多分。文中では勘ちゃんのこと、けなしてばっかいますけど。

で、頼光さんは勘ちゃんに直々会いにいけないもんだから、ロザ経由で簡単に会える蓮見さんにイジワル、…と。

1230日一部変更

BY dikmmy

 

 

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