ふと気が付くと、彼が目の前に立っていて、怒ったような、いぶかしむような、そんな不思議そうな顔でこちらを眺めていたのを覚えている。
本当の顔を誰も知らない(switch)
「…春?」
仕事熱心な彼にしては珍しいと、思わず声をかける。この時の声が、どこか怯えた調子になってしまったのは、また自分が何かしたのではないか――という不安以前に、単にその顔がちょっと怖かったりしたからで。
綺麗な顔で仏頂面をされると、それだけでまるで怒っているように見えてしまう。そんなところは、唯一彼の勿体ないところだと思いはするけれど。
何となくビクビクする思いで声をかけると、彼が非常に重そうな溜息を吐いて、タバコを口から離したのが見えた。
「…お前」
タバコの本体に付き纏うように、その後に遅れて煙が付いていくのをぼんやりと眺めつつ、その声を聞く。耳に届くのは、心地良い低いハスキーボイス。
「ありゃ、一体何だ」
呟くようなその声に、思わず目を丸く開く。
「…アレって?」
話が見えない。目を瞬いて聞き返すと、彼がどこか疲れたような眼差しを一旦こちらに向けて、手だけで、今はもう閉められている玄関の方を指したのが見えた。
その場所には先程、例の犯人が――いや、あの少年の父親が居たばかりで。その姿は今はもう、どこか、本部の方にでも連行されてしまったのに違いないく、そこには居ないけれど。
その玄関の石畳辺りにポツポツと、今も小さな血痕が残っている。それを見つけ。「…ああ、あの五百円玉は、あの子がジムで働いたお金でね…」
そう教えてやると、彼がどこか胡散臭そうに眉をひそめたのが見えた。
「――違う」
説明の合間に、強引に声を割り込ませて、強制的に終了させる。「その前だ」
そう言って彼が、今自分の座っているこのフローリングの上と、それからこちらとを目線と手で指し示す。
「前?」
「お前、ぶち倒してただろ。…例のチャンピオン」
伸びてきたタバコの灰を、携帯灰皿の穴に落としながら、それでも目線を逸らさずに彼が問いかけてくる。
その様子を、ああ器用だなとか、偉いな、とか――そんなふうに思っていた思考が、一瞬、空白になったような気がして。「……え」
思わず耳を疑う。口をついて出たのは、乾いた疑問符で。
「…また…?」
何て。本当に言葉はそれしか出てこない。頭が回らない。
どうしてだろう、何でだろう。本当に、それしか思い浮かばなくて。その言葉を聞きとがめて、彼が不思議そうな顔に、さらに眉をひそめたのが見えた。
「また?」
言葉をなぞるように、聞き返してくる。その、いつになく慎重に響いた低い声に。その、ありありと不信感の浮いたその顔に。
今までも、それ程良い顔をされた覚えなどありはしないけれど。
心が冷えていくような思いで、そっと声を絞り出す。「…えっと、あの以前にも」そう言いかけて止める。
それから仕方なしに笑って、「ちょっとね」と。それだけ言って。
「――あ?」と彼の眉が不愉快そうに片方、上がったりするのが見えるけれど。ゆっくりと、それに微笑みかけて。
人間には、皆それぞれ四つの顔があって。
自分も他人も知っている自分と、他人しか知らない自分。そして自分だけが知っている自分と、それから最後に、自分も他人も知らない自分。
その四つが絶対にあって、それが普通なことで。自分は、その最後の一つが他人より、少し多いだけだと、そう言い聞かせてきた。
嘘を言うことが良いことだと思わないのと同じくらい、誰にも話さないことを、黙ることを正しいとは思わない。
それでもさっき、目が覚めた時に、彼の顔が見えて。気が付いた時には目の前に彼がいて。
そうして安心した自分が、何だか変に口をつぐませる。
彼を気に入ったのは、別に顔だけじゃなく。嫌われたくないのは。
(…友達になりたいんだ?)
と、心の奥で、誰かが問いかける。
――友達になりたいから。初めて会った時に、何故か急にそう思った。そういう物にも運命とか、何かあるんだと、変に感心した自分を覚えている。衝撃とか感電とか、そういう何かがあったわけではないけれど。だから。
(…だから、今はまだ言えない)
その『まだ』が、いつになるかも知らないけれど。
彼と、きちんと友達になるまで。もし話したとして、離れていかなくなるまで。
僕が、ちゃんと怖くなくなるまで。
「ちょっと何だよ」
そう言って、彼が詰め寄ってくるのが見える。その顔に、半分困った顔で笑いかけて。
心の中で、ゆっくりと溜息を吐く。それは、真実を口に出来ない心苦しさからだろうか。それとも――
(…ホッとして?)
瞬間的に浮かんだその思いに、我知らず眉を潜め。
――本当の顔を誰も知らない。
※後書き※ 『switch』の快君が好きです、春よりも。あの謎さが。可愛いしね。 …ちなみに、彼らはノーマルです。 BY dikmmy |
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