――誰にも言わない願いがある。

 

 

 

 

願い事

 

 

 

 

 

 音を立てないように、そっと扉を開けて、暗がりに足を出す。時間は深夜の二時。そろそろ丑三つ時にでも入りそうな時刻。

 老人や幼児でもあるまいし、夜中にトイレでもなく、不意に喉が渇いて…なんてモノでもない。

早寝早起きという、健康的な主夫生活が身についてしまっている同居人は、とうに夢の中に違いない時間帯だった。戸を開けると、数時間前までクーラーをかけていた名残だろう、かすかな冷気が足元を掠めるのがわかる。

別に用があるわけでも、一人では寂しくて寝れないというわけでもない。ただ、何となく足が向いただけで。

何となく、目が覚めてしまっただけで。

 

 

 

そこまで考えて、自嘲に小さく笑う。「…阿呆らしいな」口元だけで、音に乗せずに呟く。――そんな下手な理由付けが嘘だということくらい、自分自身が一番良く知っているつもりだ。

目線を上げ、ゆるゆると思考を巡らす。たった一つ、かなり答えに近いものがあった。

(…せやな)

 意味も無く、小さく肩をすくめる。

ただ、顔が見たくなって――

 

 

我ながら、阿呆らしい理由だとは思う。黒猫のように、するりとドアの隙間を通り抜けると、静かに、ドアを後ろ手に閉めた。

暗闇に目を凝らす。室内の配置は、昼間と同じなため、細部まで見えなくても簡単に目的に到着することが出来る。あとは、どれだけ足音を消せるかどうかだけで――そんなのは、運動神経の問題だ。

枕元まで近付くと、ゆっくりと目線を降ろして、フローリングの床に腰を落ち着ける。ひたひたと小さく響く足音の中に、静かに彼の寝息が混ざっていた。

(…ほんま、よう似とるわ)

 瞼を伏せた彼の横顔をじっと見つめる。

 その顔は、何の苦も無く、ある別の男のものと重ねることが出来た。縮小版、といってしまえば、おそらく彼は嫌がるだろう。しかし、それ程まで彼らは本当に良く似ていた。

 

 

 さらさらと流れるような柔らかな髪も、閉じられた瞳も、形の良い顎も、唇も、何もかも。――鳴海清隆。――この、自分と同じ年齢である少年の、兄に当たる男と。

 

 

 あの男については、それ程嫌いではないが、だからといって気に入る程親しくも無かった。例えるならむしろ、「表面的に」仲の良い親友。――実際に、どうだかは知らない。言えた義理でもないが、得体が知れないというのは、まさにあの男のためにあるような言葉のように思う。

 気付かれないように、小さく溜息を吐く。

 その途端、人の気配を感じたのかどうかは知らないが、彼が何だか煩わしげに寝返りを打つのが見えた。それを見て、思わず口元に笑みが浮かぶ。

(…よう寝とる)

 何となく、衝動的に鼻でも摘んでみたい気分だ。無理に起こしたいわけではないが、かといって、家の中のみ、ここまで無防備だというのは、かなりのギャップを感じる。

(まあ、歩らしいといえばらしいけどな…)

 もう一度微笑みかけて、無言で背を向ける。静かに上体をベットの端に預けると、首筋の辺りから、規則正しい寝息が聞こえてくるのがわかった。それを耳に留めながら、目を瞑り、ゆっくりと息を吐き出す。

 

 

 

 

――彼の寝顔を見つめていると、溶けていく不安と、増して行く不安がある。

 

正直なところ、今のこの関係は気に入っていた。料理も上手いし、笑いを取ろうと話を切り出せば、笑顔を見せることもある。話は、何でもかんでも無駄が無く、まるで同じ思考で話しているかのように直ぐに繋がるし、それが邪険に思えることもない。

彼との学校生活も、それなりに楽しい。

相変わらず、彼はどこか周りに線を引き、溶け込んでみてはくれないが、これがもし、普通の学校生活だったら――と、思わず望みたくなるくらいには、十分に。

 

 

(…まあ、そんなの無理やねんけど…)

 

浅薄な希望を、あっさりと否定する。こんなもの、考え始めたら切が無いのは知っていた。むしろ、それを望みすぎることの方が危険なのだということも。

口元を歪め、薄っすらと暗闇に目を開ける。――どうやら目が慣れてきたらしかった。薄暗い中で、先程よりは、室内を良く見渡せる。首の辺りからは、相変わらず静かな寝息。チラリとそれを横目で追って。

目線だけ鼻先を掠める。首筋には柔らかな吐息。それに合わせるように、ゆっくりと呼吸をする。この暗闇に、一緒に溶けていけたら、それで良かった。

時を待つように、再び目を閉じる。

(こんなとこに居ったら、きっと清隆なら気付くんやろな)

 不意に、そんな風に思う。

 

 

あの男なら、やる気さえあれば、人の気配を察知して起きることなど、おそらく朝飯前に違いなかった。ただし、――やる気があれば、の話だ。

薄々、そんなもの存在しないのではないかと思い始めている物体でもある。そもそも、完璧な清隆には、無いものがあるのではないか、と。

 

 一緒に居た一ヶ月を思い出す。共に、逃亡生活をしていたその間、常に柔らかな瞳の、その奥に隠された無限の空虚さを感じていた。

今日明日に出来る思いではない。一人きりの寂しさと、それから――仕方が無いと。運命の前に投げ出された男の、何とも後ろ向きな、諦めにも似た気持ちを。

(…なあ、歩)

誰にも言っていない願いが、ほんの少しだけ頭を持ち上げる。

 今は閉ざされた、そんな兄とは違う彼の瞳を、目を細めて思い出す。

(俺の願いは…)

 

 

 

 

 

「――」

 口内で呟くのは、本当に、小さな願いだ。

 そっと立ち上がって、気付かれない程度に彼の柔らかな髪を弄ぶ。願いは、まだ、心の中にしまったまま――

 ついでのようにその頬に軽く触れて。

 

(…ほんま可愛らしな)

 こんなところまでは、兄と――似ていなくて良かった。

 薄っすらと微笑む。あどけない寝顔の彼を見下ろし、掠れる程に小さく囁く。行動に起こすかどうかは、どちらでも良いような気がした。

 

 

 

 

 

 

「…キスでもしてったろか、眠り姫…?」

 

 

 

 

 

 

 

 血に目覚めちゃった清隆様は、もう運命変えられないんですよねぇ〜…という話。――え、違う?

 

2004-9-17 

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