そんなある日のこと

 

 

 

 

 部室棟へと続く外廊下の途中、耳に届くその声に、彼女は足を止めた。

 ふんわりと茶色い柔らかそうな髪を、大分緩めに二つに分けて結んでいる。学園内で、恐らくは新入生以外、知らぬものの無い、並ぶものも無い少女。肩から掛けたトートバックと、ほてほてとしたその歩き方は、一見、可愛らしいとも言えないことも無い。
 私立月臣学園第二学年、新聞部部長、結崎ひよの。その情報網は、警察でさえ舌を巻き、ましてやその活用は、学園内生徒は言うまでも無く――かの学園長でさえ恐れるとか恐れないとか噂される、脅威の少女である。

 

 立ち止まるのに合わせるように吹いた風に、柔らかな髪が煽られて視界を遮る。聞こえるのは、葉が擦れるさわさわとした音と、可愛らしい、細く高い少女の声。その声は酷く震えていて。かといって聞き取れない程ではないけれども、時たま裏返ったようにもなったりして。その中で、それでも確かに。

 ――「あなたが好きです」と、そう言う声が聞こえて。

 足を揃えて立ち止まる。外廊下から見えるのは、点々と裏庭に植えられた緑の木立、吹き抜ける風に揺れる前栽、背の低い木々たち。そしてその間の、向かい合って立ち尽している少年と少女。

 

 

(…あの人は確か…)

 意識に乗せるつもりは無いままに、思考が周り出している。目の前の情報を受け取り、処理し、脳の海馬に短期記憶として書き込まれているに違いない。同時に別の場所にアクセスし、必要不必要に限らず、何かが反射的に情報をダウンロードし始めている。
 ――あの人は三年何組の誰で、学籍番号は幾ら、所属はどこで、特に親しく誰と付き合っているか。彼女の嗜好から、女同士の噂話まで、その一つ一つ。余すところ無く。
(確か、バレー部主将の鈴木さんが片思いしているとかいう…)
 梢の陰で、肩口で切りそろえた真っ直ぐな髪が、彼女の動作に合わせ、さらさらと揺れているのが見える。

 慌てて、ひよのは隠れるようにその場に座りこんだ。音を立てないようにコンクリートの塀がある場所まで逆戻りし、へたりと腰を落とす。その勢いに、お尻が少し痛くなったりもしたが、先に地に付くはずの両手は、先程の声が聞こえた直後から耳を覆ったままである。

 学園内全員の顔と名前を覚えているひよのにとって、その名前は比較的簡単に検索され得る名前だった。その人が、人並み抜けて容姿が優れていたのも、要因としては大きい。
 とはいっても、美しいから思い出しやすいと言うのではなく――醜美のみに関わらず、人の並を抜けているということが、その理由となっていた。人と違うことは当然、印象にも残りやすいものである。
 ――まあ、そうは言っても時間をかければ、ひよのが覚えている限り、それでも確実に情報は上ってくるのではあるが、今のところ、それに関しては別にどうでも良いことかもしれなかった。

 

 そっと小さく吐く溜息。耳を塞ぐ両手に力を込めて。――「ああ。嫌だなあ」と思う。

 きまりが悪いだとか、居心地が悪いだとか、それだけでは無く、ここに居る瞬間の自分が。ここに居たくないと思うくせに、立ち去れずに、まるで立ち聞きをするみたいにこの塀の裏で、こんな風にいじけたみたいにしゃがみこんだ自分が情けなくて。酷く嫌で。

 

 

(まるで、浮気調査でもしてるみたいですよねぇ…)

 思い浮かんだその例えは、本質的な意味では全く当たってはいないのだけれど。
(…別に、付き合っている、わけでもないんですもんねぇ…)
 そんなことを、何だか残念に思い返す。その一方で、相手の少年の名前は、考えるまでも無く頭の中に浮かんできている。
 サラサラの茶色の髪、両耳に光るシルバーのピアス。そのどちらも、彼の特徴だった。
 鳴海歩、月臣学園一年。つまりは、今のところ新入生。まだまだ細い肩をしているが、才能に溢れ、顔立ちも良く、将来が非常に有望として、最近赤丸大人気の少年である。
 一見しただけだが、相手がそこまで盛り上がって、感極まって涙目にさえなっているというこんな場面でさえ、相変わらず彼の表情はどこか暗いようにも見えた気がした。

(……海さん)
 硬く目をつむって、きつく耳を塞いで、先程の彼の様子を思い描く。心の目とやらがあるならば、それをフルに使えたら良い。

(鳴海さん)
 口に出さずに、その名前を呼ぶ。それに応えるように、さわさわと風が吹いて、自分の居るこの外廊下を通り抜けていくのがわかる。
 目を瞑って思い出すのは――果たして、あの時彼は、一体どんな表情をしていただろうかと、そんなことで。
 たとえば今、どんな顔をしているだろうかとか、そういったこと。

 

 いつもと変わらない表情だと思ったのは、見間違いや、自分の希望では無かったと。今、この場でいつものように胸を張って言えるだろうか。言い切ることが、本当にできるだろうか。
 笑っているだろうか。照れているだろうか。今まで誰からも、自分自身でさえ認められなかった自分の価値を、見ず知らずの、それも可憐な少女に認められ、恐らくは彼女に笑顔を向け、好意をいだいたり、あるいは――

(…あるいは、「OK」、の…)

 「YES」の返事を。了承の返事をしないと、誰が言えるのか。

 こんな時に考えることは、いつも酷く独善的で、自分しか大事じゃなくて、自分しか見ていない。自己中心的。利己的で、他人に見せられたものでも、見せるものでも無い。――気がするのでは無く、それは真実で。そうしてそれは、 決して格好の良いものなんかじゃなく。
 廊下に座り込んだせいか、足先を冷たく感じるような冷静などこかが、小さく溜息を吐く。

(…こんなこと考えるようじゃ、恋する乙女は名乗れないですかねぇ…)

 そんな風に考えるその響きは、どこかのどかだけれど。

 

 物音を立てないように、その場で勢いを付けて、手を使わずに立ち上がる。肩を動かしてバックを肩に掛け直し、コンクリートの影に隠れて移動を開始する。
 ――何も、部室棟への道のりは、この外廊下だけではない。そう思いなおして、ひょこひょこと腰を低くして、見つからないようにと移動して行くその途中。
 

 ――フラれちゃえば良いのに、と。

 力一杯両耳を塞いでいるせいか、どこか遠くで、耳鳴りが聞こえるような気がした。

 

 

 

 

 

 

  前、漫画で書いたのを、小説化。 パソがおかしい。Last2005-2-20

 ※一部変更220日 BY dikmmy