「…私がそばに望んだのは、ステラだけだ」
心に染み入るように、耳に届く、彼の言葉を聞く。
胸に湧く、この気持ちを何と言おう。
――その答えを、誰が知っているだろうか。
月が落ちる
アーデルハイトを愛してはいないのだと――ヴァンパイア王は女王を愛しているから求めているのではないと。そのような衝撃の告白を受けた翌日の夜。
日はとうに傾き、闇の帳が下り、普通ならば寝静まるような時間帯に彼らは動き出す。それに合わせるために、自身もまた愛おしい熊の人形に別れを告げて、闇に溶け込んだ屋敷内で、そっと歩を進める。
夜行性の生き物たちのこの生活時間は、決して生身の人間には慣れるものではない。
そうでなくとも、元々規則正しい生活を送ってきていていた花雪にとって、昼夜が完全に逆転した生活には、辟易する点も多い。
静かに溜息を吐いて、ゆっくりと辺りを見渡す。
壁についた手から伝わる感触は、この夜の冷気に当てられ冷え込んだ木製の柱のものだ。暫く触れていると、手から温もりが移り、まるで木の中から温かみが湧いてきているようにも思われる。
(…やはり相手がヴァンパイアでは、時間帯が合いませんね)
ぼんやりと、そんなことを考える。
自室のある本館を抜けて、外の渡り廊下へ出る。彼のいる離れへと足を向けると、明かりがついているのが見えた。
手前には、苺の乗ったホールケーキ。その奥に、籐椅子に腰かけ、優雅な姿勢で雑誌をめくる彼の姿。
相変わらず彼はケーキを食べている。問題の昨晩は、クリームの乗ったショートケーキ。そして今晩は、チョコレートのケーキ。思わず、主食がそれなのかと思い込みそうな程だ。
離れと外廊下を繋ぐその場所からは、風情ある椿の枝と、小さめの池が目の前に広がっている。それを見るとも無く、彼――ストラウスが雑誌のページをめくり、その合間にそっとカップを傾ける。
「…そのご様子ですと、お体の調子はよろしいようですね」
昨晩のことなど、どうということも無かったとでもいうように飄々とした態度の彼に、薄く眉根を寄せながら声をかける。
「おかげでな」
彼からは、こちらを振り向かないままで、返答があった。
言葉の割りに、心は何もこもっていない。はっきり言って――これは当たり前の話で。
ヴァンパイア王と黒鳥では、互いに憎しみあい殺し合いこそすれ、体の調子を気遣うような間柄ではない。
その上、昨日のことで唯一彼の価値としてきたことは、否定されているのだ。
彼の価値、彼の行動の意味。愛するものを取り戻すこと。――それらは嘘だったと。記憶の底から伝えられたそれは、真実では無かったと。
ならば、どこに自分が彼を気遣う要素があろうか。
どこに、彼を哀れに思う理由があろう。
一体どこに…――それを思いながら、何故か変に苛立つような気分で、そっと、彼の横顔を見つめる。
まるでポーカーゲームのように、騙し合いを続けている彼を。
(…ならば何故)
するりと、その間に別の思考が入り込んでくる。
波打つ水面の下で、そこだけが静謐を保つような。そこだけが穏やかに、ゆっくりと、時が止まったように。
(――何故、…憎めないんだろう)
四十九人分もの、殺された娘たちの怨念を受け継いでいるはずの自分は。
「…私がそばに望んだのは、ステラだけだ」
その言葉を聞いて、ああそうか、と――どうして責める気にすらならないのか。聞き慣れないその名前を、素直に受け入れてしまえるのか。
彼の微笑み一つで、どうしてこうも胸が騒ぐのか。
(…何故?)
振り返る、彼の瞳を見つめる。血のように赤いけれど、とても美しくさえ思う彼の瞳を。そっと、月夜に映える彼の長い髪を見つめ。
問いかけに、ふと、懐かしい顔が浮かぶ。それは、懐かしいけれども花雪にとっては本来は良く知りもしない人の顔だ。
(先代…)
小松原ユキという名の、自身に良く似た姿の女性が、静かにそれを見て笑っているような気がする。
その姿に、ぼんやりと問いかける。
(…あなたなら、知っていますか)
この問いの答えを。
答えの意味を。知っているだろうか。
…あなたなら。
2004-10-27
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